江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

富岡鉄斎が描いたイオマンテ

富岡鉄斎「旧蝦夷風俗図屏風」(右隻)東京国立博物館蔵
イオマンテ(クマ送りの儀礼)が描かれており、物語の流れとしては、画面中央右隅にいる5、6人の男たちによる「イナウ削り」から始まり、ついで画面下部にイオマンテのクライマックスである「クマの檻出しと矢の射掛け」「クマの挟首」の場面が描かれ、そして画面上部右に「クマの霊へのカムイノミ」、左に「輪舞」となり、中央右の「酒宴」へと続いている。

最後の文人画家と称される富岡鉄斎(1837-1924)は、京都に生まれ、若いころから学問を志し、私塾を開き、各地の神社の神官を歴任していたが、兄が没したために京都に戻り、以後89歳で没するまで、文人として精力的に書画制作を続け、独創的なスタイルを作り上げた。また、生涯に渡ってほとんど休むことなく旅に出かけ、北海道から九州まで日本中のほとんどの地域を踏破しており、北海道には明治7年に渡っている。

掲載の「旧蝦夷風俗図屏風」は、アイヌの風俗を題材に明治29年に制作されており、右隻には「イオマンテ」が描かれている。イオマンテとは、アイヌにとって最も神聖で重要な「クマ送りの儀礼」のことで、人間の世界(アイヌモシリ)に遊びに来たクマの神を、神々の世界(カムイモシリ)に送り返す一連の儀式のことである。クマの神は、人間の世界に来る時に黒い毛皮を身にまとってたくさんの肉や薬をおみやげに携えてくる。そのクマの神が人間の世界を堪能して神々の世界に帰る時、人間の手で黒い毛皮の扮装を脱がせてあげるのである。

鉄斎が北海道を訪れたのが明治7年で、この屏風が制作されたのが明治29年と間が開いており、さらに北海道での調査期間もわずかだったことから、この屏風に描かれているものすべてを鉄斎が調査、取材したとは考えにくく、基本的には友人である松浦武四郎の『蝦夷漫画』によるものが大きく、それに村上島之允の『蝦夷島奇観』、谷元旦『蝦夷紀行』などの書物から情報を得て、鉄斎流にアレンジして描いたものと考えられている。

富岡鉄斎(1837-1924)
天保7年京都生まれ。通称は猷輔、のちに百錬、字は無倦。別号に鉄崖、鉄道人などがある。幼いころから石門心学を学び、15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学んだ。18歳頃に、女流歌人・大田垣蓮月に預けられ薫陶を受け、翌年には窪田雪鷹、大角南耕、小田海僊、浮田一蕙らにも学んだ。文久元年には長崎に遊学し、祖門鉄翁、木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。文久2年に私塾を開き、湊川神社、石上神社、大鳥神社の神官を歴任するが、兄の死に伴い、明治14年京都に戻り、以後没するまで書画制作を続けた。明治27年から京都市美術学校教授を37年間つとめた。明治29年には京都の南画家たちと日本南画協会を結成、大正6年帝室技芸員となり、大正8年には帝国美術院の会員になった。大正13年、89歳で死去した。

北海道(13)-画人伝・INDEX

文献:「國華」1250号、富岡鉄斎画集、生誕一八〇年記念 近代への架け橋 富岡鉄斎、富岡鉄斎と近代日本の中国趣味