江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

養父の仕事を引継ぎ『蝦夷生計図説』を完成させた村上貞助

村上貞助『蝦夷生計図説』のうち「チッフ(舟)の部・舟材の切り出し」

寛政11年の蝦夷地大調査に参加し『蝦夷島奇観』を著した村上島之允は、その後も蝦夷地の風俗や器物をさらに詳述した続編を著していたが、完成をみることなく49歳で病没した。村上島之允の没後は、門人の間宮林蔵が師の業績を継承しようとしたが、地図の作成などに追われて果たすことができずにいた。そこで、村上島之允と親交のあった勘定奉行の遠山左衛門(遠山金四郎)は、村上島之允の養子で門人だった村上貞助に『蝦夷島奇観』の継承を命じた。

『蝦夷島奇観』の継承を命じられた村上貞助(1780-1846)は、備中国に生まれ、のちに村上島之允の養子となっている。どのような経緯で村上家の養子になったのかは不明だが、養父と同様に蝦夷地の御用をつとめ、蝦夷地の風俗習慣、測量や地図作成、書画など、さまざまなことを養父から学びとっていたと思われる。

文政6年、約20年の歳月を要して『蝦夷島奇観』の続編である『蝦夷生計図説』が完成した。この図説は、村上島之允、間宮林蔵、村上貞助の三者による労作といえる。また、貞助は、文化8年にはクナシリ島に上陸して松前藩の虜囚となったロシア人ゴローニンにロシア語を学び、通訳としても活動した。さらに『漂流台湾チョプラン島之記』や、間宮林蔵の黒竜江沿岸紀行や樺太踏査の見聞を筆記編集した『東韃地方紀行』『北夷分界余話』などの著作も残し、『北夷分界余話』では、樺太アイヌの風俗に言及し、記録画も挿入している。

村上貞助(1780-1846)
安永9年生まれ。備中国(現在の岡山県)生まれ。村上島之允の養子。島之允没後の文化7年から文政4年にかけて蝦夷地に在勤した。号には秦貞兼、秦一貞、横文斎などを用いた。幕府の同心の身分で、間宮林蔵とは同い年。掛け軸として「蝦夷弾琴図」「アイヌ狩猟の図」がある。弘化3年、66歳で死去した。

北海道(11)-画人伝・INDEX

文献:「アイヌ風俗画」の研究-近世北海道におけるアイヌと美術描かれた北海道