寛政11年の幕命による蝦夷地大調査には、谷文晁の実弟・谷元旦(1778-1840)も産物調査の一員として参加していた。元旦がこの調査に参加したのは、15歳年長の兄・文晁が仕えていた御三卿のひとつ・田安家に幕府から蝦夷地調査の命があり、兄の縁故により元旦が加わったものとみられる。このことから、当時20歳だった元旦は、すでにすぐれた画技を保持していたと思われる。その後、元旦は鳥取藩の家臣・島田図書の養子となり、島田姓を名乗るようになる。→島田元旦
元旦の一隊は、植物調査を主体としており、幕府奥詰の医師で薬園総管を兼ねていた渋江長伯を隊長としていた。元旦の役割は、絵図面取りで、蝦夷地各地の実景、植物、鉱物、アイヌ風俗を4ケ月にわたって調査し、薬草の写生図を制作し、ならびに風土、人物、器用、産物などを詳細に写生した。描いた蝦夷草木写生図は数百種類におよび、長伯の記録とともに本草家に珍重され、植物学界に貢献した。元旦は、ほかに紀行文『蝦夷紀行』などもまとめている。
元旦が残した蝦夷地関係の絵画作品は、個人蔵も含めて各地に点在しているため、その全容が判明していない。作品としては、風景画では「東蝦夷紀行」、器物画では「蝦夷器具図式」がある。また、アイヌ絵としては「蝦夷風俗図式」「蝦夷紀行図」の2冊に集約されている。これらの作品は、いずれも鳥取藩に養子に入る以前に描かれ、報告されていたと思われる。また、掛け軸としては「毛夷武餘嶋図」がある。
谷元旦(1778-1840)たに・げんたん
安永7年江戸生まれ。漢詩人・谷麓谷の二男。谷文晁の実弟。名は元旦、字は文啓。別号に嘯月、斎香、雪軒などがある。寛政年間までの絵画修業に関する資料は極めて少ないが、「鳥取藩史第1巻 世家藩士列伝」の伝記によれば、寛政2年に関西に行き、円山応挙に師事、応挙没後は南頻派を学んだとされる。享和元年、鳥取藩の家臣・島田図書の養子となり、文政2年、養父が没したため家督を継いだ。鳥取藩の江戸留守居役(家老)の要職をつとめたが、晩年に江戸詰を解かれて鳥取で過ごした。天保11年、63歳で死去した。
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