広島に初めて本格的な洋画をもたらした人物として小林千古(1870-1911)があげられる。千古は、出稼ぎ労働者として渡米し、苦学してサンフランシスコの美術学校を卒業、さらにヨーロッパにも遊学し、黒田清輝、岡田三郎助、中村不折らと交友した。帰国後は白馬会展に出品し、注目を集めるが、病のため41歳で死去した。千古の広島での活動は、帰国してから上京するまでの短期間だったが、その間、広島市内に画室を設け、洋画の指導を行なった。この画室からは千古唯一の弟子とされる吉岡満助(1889-1945)が出ている。吉岡は広島で最初の絵画研究所を開き、大正・昭和の広島画壇で活躍した。この吉岡の門からは女性画家の先駆者・中谷ミユキ(1900-1977)らが出ている。また、のちに広島出身の代表画家となる南薫造(1883-1950)も、画学生のころ、師である岡田三郎助の紹介で千古の画室を訪ね影響を受けたという。早世した千古が広島で活動した期間は短いが、のちの広島画壇の洋画家たちに与えた影響は大きなものだった。
小林千古(1870-1911)
明治3年広島県佐伯郡地御前生まれ。名は花吉。明治24年から6年間、カリフォルニア・デザイン学校(のちにマーク・ホプキンス美術学校)に学び、明治29年には同校コンクールの素描の部で優等ブラウン・メダルを獲得、卒業前年には160点の作品により個展を開催した。明治31年に帰郷したが、募る向学心をおさえられず、わずか5カ月の広島滞在で欧州遊学を目指して旅立った。まず、費用を捻出するためにハワイに渡り、肖像画を描きながら渡航費を得て、パリに着いたのは明治33年だった。パリでは、黒田清輝、岡田三郎助、中村不折らと親交をもち、欧州の名画を参考に研鑽に励んだ。明治36年に帰国、2年後の白馬会創立10年記念絵画展に出品、アメリカで学んだとう物珍しさもあり、新聞・雑誌などに取り上げられ注目された。明治40年に東京府勧業博覧会に出品した「誘惑」は、青木繁の「わだつみのいろこの宮」とともに場内最高の値段がつき、評判は高かったが、受賞には至らなかった。明治41年病いのため帰郷、明治44年、41歳で死去した。
中谷ミユキ(1900-1977)
明治33年広島市生まれ。はじめ故郷で吉岡満助に学び、昭和5年帝展に初入選。翌年上京して岡田三郎助に師事した。昭和12年光風会展に初入選。翌年、靉光、宇根元警らと広島芸術協会を結成した。戦後は女流画家協会の創立に参加、同展や二紀展を中心に活動した。昭和52年、78歳で死去した。
南薫造(1883-1950)
明治16年豊田郡安浦町生まれ。明治35年上京して東京美術学校西洋科に入学、フランス留学を終えたばかりの岡田三郎助に学んだ。在学中に師の岡田の紹介で、留学経験のある同郷の小林千古の画室を訪ねている。明治40年東京美術学校を卒業し、イギリスに留学。ロンドンではサウス・ウェスト・ポリテクニックカレッヂに入学、ボロー・ジョンソンに師事し、油絵、水彩画を学んだ。イギリスでは白滝幾之助、富本憲吉、高村光太郎らと交友した。ロンドンで2年過ごし、フランスに移り、イタリア各地をまわり、3年間の留学を終えて、明治43年帰国、同年第4回文展で三等賞を受賞した。以後も文展、帝展、新文展、日展を舞台に活躍、受賞を重ねた。大正2年日本水彩画会の創立に参加、昭和4年帝国美術院会員、昭和19年帝室技芸員となった。戦時中は広島県に疎開したが、再び上京することなく、昭和25年、66歳で死去した。
広島(15)-画人伝・INDEX
文献:近代洋画・中四国の画家たち展、広島洋画の粋