江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

菅茶山・頼山陽の広島の門人

小早川文吾

福山が誇る儒学の大成者・菅茶山は、京坂地方や江戸で与謝蕪村、池大雅ら多くの著名文人と交友し風雅の道を究めたが、その生涯の大半を郷土の神辺で過ごし、私塾などを通して地元の教育に尽力した。また、京都で名をなした頼山陽に影響されて学問を志したものも多い。菅茶山、頼山陽に師事し、画を描いたものとしては、菅茶山に師事した小早川文吾(1782-1880)、頼山陽に師事した関藤藤陰(1807-1876)、江木鰐水(1810-1881)らが余技で絵筆を握って、風雅に富んだ作品を残している。

小早川文吾(1782-1880)
天明2年土生村生まれ。字は景汲、通称は文五郎、文吾。別号に採薇、太平楽々翁、楽々斎などがある。神辺宿七日市の医師・小早川享説の二男。家業を継いで医学を学び、のちに菅茶山の門人となり、頼山陽、藤井暮庵、門田朴斎、古川古松軒、関鳧翁らと交遊した。和歌、絵画、文字学にも秀でており、特に作字が得意だった。茶山の没後に「春秋園」と称する私塾を開き、子弟の教育を行なった。晩年失明したが、それでも講義をやめなかった。著書に『三光史』『教訓古今道しるべ』『奉納梅花千首』などがある。明治13年、99歳で死去した。

関藤藤陰(1807-1876)
文化4年備中国吉浜生まれ。関政信の子。関鳧翁の弟。福山藩儒者。幼名は元五郎、諱は成章、字は君達、通称は淵蔵、五郎、和介、文兵衛など。幼くして両親と親代わりだった伯母を亡くし、備中吉井村の石川順介に引き取られて養子となった。敬業館で小寺清先の薫陶を受け、のちに京都の頼山陽に師事した。福山藩儒者として、藩校「誠之館」の創設、ペリー来航にあたっての浦賀・下田の探索や2度にわたる蝦夷地探査などを行なった。また、幕末動乱期の長州藩による福山城攻撃に際しては「大義滅親論」を唱えて藩論をまとめ和議を成立させ福山城下を戦火から守った。著書に『文章軌範筆記』『詩書筆記』『蝦夷紀行』『観国録』『藤陰舎遺稿』『杜詩偶評説』などがある。明治9年、70歳で死去した。

江木鰐水(1810-1881)
文化7年賀茂郡河内町戸野生まれ。庄屋・福原藤右衛門貞章の三男。福山藩儒者。名ははじめ貞通のち戩、字は晉戈、通称は健哉のち繁太郎。別号に健斎、三鹿斎がある。14歳で福山藩医・五十川義路の子義集に学んだ。のちに義路の娘と結婚し、五十川家の縁戚である江木家を継いだ。1830年京都の頼山陽に師事し、山陽没後は大坂の篠崎小竹に学び、ついで江戸の古賀洞庵に師事した。天保元年福山藩の藩儒として登用され、弘道館で教授し、誠之館の創設に尽力した。藩の兵制を改革し戊辰戦争には参謀として函館まで転戦した。廃藩置県の後は養蚕を奨励し、干拓水利事業の進言、河川を利用した陰陽連絡通路の立案など、県に大きな足跡を残した。明治14年、72歳で死去した。

太田午庵(1753-1808)
宝暦3年生まれ。名は豫、字は子順、通称は権三郎。俳号は呂十。広島藩物頭役をつとめていたが病弱のため退き、あとは風雅に身を置き、平賀白山、飯田篤老と交遊し、頼春水、山陽とも交わった。画を得意とし、俳文にも長じた。文化5年、56歳で死去した。

平賀白山(1745-1805)
延享2年生まれ。名は周蔵、字は子英。剃髪して小川蕉斎とした。別号に獨醒庵がある。古学を唱え詩文に長じた。頼春水、太田午庵らと交遊した。晩年は俳諧も好んだ。文化2年、61歳で死去した。

宮原節庵(1806-1885)
文化3年生まれ。名は士淵、通称ははじめ謙蔵のちに龍。別号に潜叟、易安、栗林がある。尾道の名家・渡橋貞兵衛の五男。のちに父の元の姓、安芸の宮原姓を名乗った。尾道にいく途中に渡橋家を訪れた頼山陽の弟子となり京都に出て、山陽の塾の中心人物となった。特に書においては師を勝るともいわれた。明治18年、80歳で死去した。

広島(12)画人伝・INDEX

文献:菅茶山ゆかりの絵画展、安芸・備後の国絵画展