江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

四条派を学んだ杉野怡雲ら福山藩士

杉野怡雲

福山藩では藩士のなかに四条派を学んだものが多い。杉野怡雲(1791-1865)は家督を弟に譲り、京都に出て松村呉春、岡本豊彦に学んだ。帰郷後は城北丘上に住み、藩士・町人を問わず交遊し、詩酒や茶席があるところには必ず列席し、風流三昧の生活を送った。倉井雪舫(1792-1844)も岡本豊彦に学び、人物画を得意とした。弓術を以って仕え、大目付、郡奉行、町奉行などを歴任した高田杏塢(1806-1889)も松村呉春、柴田義董に学び、山水を得意とした。幕末藩政の枢機に活躍した吉田東里(1813-1891)は、幼いころから画を好み、若くして京都に出て岡本豊彦の門人・田中日華について学んだ。父親の没後に福山に戻り、文武両道に励んだ。また、鞆町の裕福な商家に生まれた鎌田呉陽(1802-1858)は、松村呉春、松村景文に学び、彫刻も巧みで、京都の公家のお抱え絵師になった。

杉野怡雲(1791-1865)
寛政3年生まれ。福山藩士・杉野番九郎の長男。諱は皓、字は十九。幼いころは儒者・菅茶山に学び、長じて風流を好み、家を弟に譲って京都に出て松村呉春に師事、呉春没後は岡本豊彦に学んだ。帰郷後は福山城北の木之庄山上の一草庵を結び、無聲庵と号して、日々詩歌に遊び、画を描いた。藩士・町人を問わず交遊し、詩酒や茶席があるところには必ず列席し、酔って筆をとったという。慶応元年、75歳で死去した。

倉井雪舫(1792-1844)
寛政4年生まれ。福山藩士。名は久太郎、光大のちに茂手木。幼いころから画を好み、岡本豊彦に学び、特に人物画を得意とした。儒者・篠崎小竹と親しく交遊した。文政2年に江戸詰となったが、翌年福山に戻った。大目付触流を経て大目付本役、大坂留守居を歴任した。弘化元年、53歳で死去した。

高田杏塢(1806-1889)
文化3年生まれ。福山藩士で日置流弓術の達人。父は高田又次郎成美。名は槌五郎、のちに段右衛門と改めた。諱は成憲。晩年になり耳が遠くなり聾翁と号した。大目付、郡奉行、町奉行、者頭、元締役などを歴任した。画は松村呉春、柴田義董に学び、山水画や人物画を得意とした。明治22年、84歳で死去した。

吉田東里(1813-1891)
文化10年生まれ。福山藩士・高久荘太郎隆次の二男。幼名は豊蔵、のちに五右衛門。諱は隣悳のちに豊省、東里。別号に喜園、如睡、濤湖がある。天保9年、吉田司馬信光の養子となった。幼いころから画を好み、若くして京都に出て岡本豊彦の門人・田中日華について学んだ。父親の没後に帰郷し、文武両道に励んだ。東海道の風景を愛し、江戸往復の際に名所旧跡を臨写し、『東海餘暇』として数巻にまとめた。弟子に藤井松林がいる。明治24年、79歳で死去した。

鎌田呉陽(1802-1858)
享和2年福山市鞆町生まれ。実家は富裕な商人・あぼし屋。通称は弥三郎、諱は清造。別号に晋、士允、嘯雲がある。幼いころから画を好み、長じて京都に遊学した。松村呉春に入門し、さらにその弟・松村景文に学んだ。彫刻も巧みで、京都の公家のお抱え絵師になった。福山実相寺で一日1000画、韜光寺で1500画を描いたなどの逸話が残っている。安政5年、57歳で死去した。

広島(5)画人伝・INDEX

文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展、安芸・備後の国絵画展