江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

福山藩の狩野派、片山墨随斎守春・索準斎守規父子

片山索準斎守規

幕府御用絵師の狩野派は、福山藩にも早くからもたらされ、明和・天明の頃に土屋索進斎(不明-不明)が出ている。索進斎は、福山城下深津町鉄屋に生まれ、京都に出て狩野派の鶴沢探鯨・探索に学び、法橋に叙せられた。同門に円山応挙、田中索我らがいる。晩年には福山に戻って藩内に画風を伝えた。芦田郡府中出身の片山墨随斎守春(1720-1794)、片山索準斎守規(1772-1833)父子も狩野派を学び、ともに法橋に叙せられている。また、江戸詰で阿部家の家臣だった吉田蘭香兼貞は、阿部正倫に仕え、天明3年御用絵師となった。二代・吉田洞佐美保、三代の吉田洞京(不明-1849)と御用絵師は引き継がれ、四代の吉田洞谷(1830-1887頃)は、洞京の娘婿となり、阿部正精、正寧、正弘と三代の藩主に仕えた。

片山墨随斎守春(1720-1794)
享保5年生まれ。別号に素準斎、鯨序斎がある。狩野派の画を学び名声を得た。法橋に叙せられた。寛政6年、75歳で死去した。

片山索準斎守規(1772-1833)
安永元年生まれ。片山守春の五男。別号に墨雲斎がある。狩野派を学び、父と同じく法橋に叙せられた。天保4年、62歳で死去した。

土屋索進斎(不明-不明)
明和・安永・天明期に活躍した。通称は丈右衛門。鉄屋・土屋三右衛門の子。京都で鶴沢探鯨・探索父子に学んだ。同門に円山応挙、田中索我(鴨方)らがいる。備前池田家に招かれ、晩年法橋となり、福山に住んだ。

吉田洞京(不明-1849)
江戸詰の福山藩士・阿部家家臣。諱は春安。吉田家三代。文政8年、阿部正精の御用絵師となった。嘉永2年死去した。

吉田洞谷(1830-1887頃)
天保元年生まれ。名は春良。雅号は蘭英斎洞谷。別号に雲援、松涛軒などがある。江戸小石川大塚の高橋嘉右衛門の三男。吉田洞京に師事し、娘婿となり養子に入った。人物画を得意とした。慶応4年には一家で福山に引っ越し、藤井松林とともに画学小教授心得とななった。廃藩後は東京に戻った。明治20年頃死去した。

平井雪旭(1806-1885)
文化3年生まれ。名は本右衛門、のちに平蔵と改名した。諱は正親。雅号は永進斎雪旭。福山城下本町の宿老格をつとめた。家業は紺屋。狩野派の画を学び、山水、花鳥、人物など多くの下絵粉本を残している。息子・雪正も風流人で俳句をよくした。明治18年、80歳で死去した。

広島(3)画人伝・INDEX

文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展