江戸時代も半ばを過ぎると、京都や江戸の画家が藩の御用絵師となって地方に召抱えられるようになり、広島藩においても雲谷派から幕府御用絵師の狩野派へと主流が移っていった。広島藩の狩野派としては、江戸で狩野探信守道に学び、藩の御用絵師をつとめた山野峻峰斎(1784-1852)が、多くの門人を育てるなど大きな足跡を残している。門下には、藩の御用絵師を継いだ小林月峰(1834-1888)をはじめ、橋本峻嶂(1829-1892)や笠間桃園(1813-1892)らがいる。また、広島藩内出身の狩野派の画人としては、豊田郡大長村の大森捜月(1749-1786)が、京都で狩野派の大森捜雲に学んで画業を継ぎ名声を得ている。
山野峻峰斎(1784-1852)
天明5年生まれ。広島の人。名は啓次、のちに守嗣。文政9年、江戸で狩野探信守道の門人となり、一字拝領で「守」の字を許されて峻峰斎守嗣と名乗った。広島藩の御用絵師として活躍し、「厳島図絵」や「芸備学義伝」第三篇拾遺の挿絵を描いた。門人には、小林月峰、橋本峻嶂、笠間桃園らがいる。また、子の峻斎(啓内)が跡目を相続し、御居間坊主のち御茶道方として召抱えられた。嘉永5年、69歳で死去した。
小林月峰(1834-1888)
天保5年生まれ。広島の人。通称は隆助。山野峻峰斎に狩野派の画を学んだ。藩の絵師となって剃髪したが、のちに還俗した。明治21年、55歳で死去した。
橋本峻嶂(1829-1892)
文政12年生まれ。広島の人。通称は元祐。幼いころから山野峻峰斎に師事し、狩野派の画を学んだ。躍鯉群雀の墨画を得意とした。明治25年、64歳で死去した。
笠間桃園(1813-1892)
文化10年生まれ。広島八町堀に住んでいた。通称は庫太。二楽斎桃園とも称した。山野峻峰斎に狩野派の画を学んだ。明治25年、80歳で死去した。
大森捜月(1749-1786)
寛延2年生まれ。豊田郡大長村の人。名は守芳、通称は永蔵。海老屋某の子。幼いころから画を好み、のちに京都に出て大森捜雲に学び、捜雲の娘と結婚して家を継いだ。天明6年、38歳で死去した。
広島(2)-画人伝・INDEX
文献:広島県先賢傳、芸藩ゆかりの絵画展、近世広島の絵画展