江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

群馬師範学校の生徒実習に鉛筆画を導入した武居梅坡

武居梅坡「雲龍図」大雲寺蔵

武居梅坡(1831-1905)は、高崎新田町に生まれた。幼いころから画を好み、6歳のころには草双紙などの挿絵を模写することを娯しみとしていたという。12歳の時に高崎藩士で南蘋派の矢島乾庵に学び、18歳の時には両親に無断で家を出て、吾妻郡草津の宮崎竹坡に入門した。

24歳の時に竹坡の紹介で江戸の岡本秋暉に師事、秋暉から手本を送ってもらい、習作を送り返すという方法で数年花鳥画を学んでから、高崎に帰り、新町の旅籠屋油屋田中吉兵衛方に婿入りした。

文久2年、31歳の時に、伝馬負担の経費捻出の一助として見世物興行等を願うために禁を冒し直訴した、いわゆる伝馬事件が勃発し、それに荷担したとして検挙され入牢の身となった。事件落着後は、油屋田中家の籍を離れ実家に戻ったが、寄合町の歌人・武居世平に請われて二女まつと結婚し、その養子となって武居姓を継いだ。

寄合町で寺子屋を開くと、入門者や揮毫の依頼が日を追って増えていき、入門者は350余名に達したという。明治5年、新学制の発布によって私塾の廃止を命じられたため寺子屋は閉じ、明治8年には熊谷県庁庶務課編輯係に奉職、翌年暢発学校(のちの群馬県師範学校)の絵画教授となった。その間、一時上京して高橋由一の天絵社で油絵の指導を受け、生徒実習に鉛筆画を導入した。これが上州における西洋画の嚆矢といわれている。

明治12年、47歳の時に教員を辞して大蔵省商務局図画課に勤務するため上京して麹町に住んだが、2年後に図書局が廃止になったため帰郷、その後は高崎に戻って余生を送った。門人に、のちに婿養子となって武居姓を継いだ武居梅堤(1873-1945)や林晴軒(1854-1916)らがいる。

武居梅坡(1831-1905)たけい・ばいは
天保2年高崎生まれ。金井忠蔵の二男。本名は馨、字は降雪。別号に香彰堂、烏江老漢などがある。はじめ宮崎竹坡、のちに岡本秋暉に絵を学んだ。高崎に帰ってから新町の旅籠屋油屋田中吉兵衛に婿入りし、文久2年の新町伝馬事件に荷担し検挙され入牢。事件落着後は生家に帰り、寄合町の武居世平の二女まつの婿養子になった。明治維新後は私塾を閉じ、絵画に専念した。絵のほかに詩文を大沼枕山、書法を長三石、和歌を田島尋枝、狂歌を岳父世平に学んだ。狂歌をよくし、菫庵3世を称して狂歌連の判者をつとめ、朝寝坊四起・十時園などを名乗った。明治38年、75歳で死去した。

武居梅堤(1873-1945)たけい・ばいてい
明治6年高崎生まれ。武居梅坡の婿養子。名は肇。武居梅坡の弟子だったが、梅坡の長女なかと結婚し養子となって武居姓を継いだ。大正14年夏に武居家の菩提寺である大雲寺本堂の内陣天井画「花卉翎毛六十六図」を描き、昭和2年には養父梅坡の「雲龍図」を修復した。はじめ梅堤と号したが、昭和初期頃に秋錦と改めた。昭和20年、72歳で死去した。

林晴軒(1854-1916)はやし・せいけん
安政元年江戸生まれ。前橋藩松平侯家臣で、藩主の武蔵川越から前橋への転封に伴い同地に転住、石川町に居を定めた。南画を大庭学僊、武居梅坡に、西洋画を高橋由一に学んだ。大正5年、62歳で死去した。

群馬(11)-画人伝・INDEX

文献:群馬の絵画一世紀-江戸から昭和まで、上毛南画史、群馬県人名大事典