江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

秋田(14)-ネット検索で出てこない画家

昭和期の画家(1)
皆川東僊
明治10年秋田市手形生まれ。栢山は祖父。足が悪く、9歳の時に両耳が聞こえなくなった。20歳で小室怡々斎に入門、さらに京都の久保田米僊にも数年学んだ。京都から帰ると秋田市柳町鉄砲小路の寺に住み、気が向くと絵を売りながらの旅に出た。昭和の初めに東京に出て、それから大陸に渡り消息を絶った。

柴田馬嶺
嘉永3年雄勝郡羽後町西馬音内本町の柴田家に生まれた。本名は政治。幼い頃に父久助が亡くなったため祖父黒沢八郎兵衛の家で育った。黒沢家は古い染め物屋で、代々絵を得意とし、馬嶺も八郎兵衛の手ほどきを受けた。明治7年馬嶺は町内の柴田弥惣兵衛の長女イチの婿になり「一染」と号した。婿入り先の分家柴田与之助宅には寺崎広業が永住まいしており、広業の東京天籟画塾にも2、3度訪れ修業を積んでいる。師の広業は年長の馬嶺を「馬嶺先生」と呼んでいたという。作品には仏画神像が多い。昭和3年死去。

三浦雪堂
明治4年5月20日由利郡由利町東滝沢の前郷生まれ。本名は六三郎。別号に宋眠、鳥海、俳号に瓢六がある。儀兵衛の五男。兄に東耕、次兄に田村義雄がいる。幼い頃から画才があり、明治21年上京し、呉春派の村瀬玉田に入門した。大正11年の第1回県出身書画作品展に《芦雁》を出品している。菩提寺の慶祥寺に代表作《武帝と達磨問答図》が残っている。昭和3年10月6日死去。

荒岩松庭
弘化4年5月3日比内町大葛生まれ。本名は常吉。大館市谷地町に住んでいたが、大方比内町扇田、独鈷、大葛など転々とめぐり歩いた。扇田の寿仙寺の玄関の天井に《雲龍図》が、個人宅に屏風や襖絵などが残っている。昭和3年12月5日、82歳で死去した。

北村愛竹
明治9年12月23日大館市良風院前生まれ。名は周助。藤助の長男。称置石月を慕い函館で修業後、菅原白竜に学んだ。京都の南画協会に出品した。昭和5年5月1日、都下の大島村で55歳で死去した。

淡路釆草
明治31年山本郡藤里町藤琴字大沢生まれ。本名は浅之助。別号に紫水がある。農業の多助の三男。大正6年上京し大滝雨山について絵を学び、9年には平福百穂の白田舎でさらに研鑽を積んだ。11年の中央美術展で《家鴨の子》が入選した。作品は花鳥が主だが、帝展のために描いた最後の絵《野ぶどうと猿》が残っている。昭和6年12月21日死去。

滑川穫堂
明治14年10月11日湯沢市下町生まれ。本名は道太郎。滑川家は佐竹武士で「槍の滑川」として代々槍術で名高かった。穫堂は県内の小学校の教員を勤め、湯沢高女の校長となった。晩年に広島晃甫と知り合い、旧来の派と異なった新鮮な花鳥画を描いた。昭和7年4月13日死去。

東海林恒吉
明治34年雄勝郡稲川町三梨生まれ。川連小、湯沢女子小、師範付小に勤め、大正14年上京して小石川区駕篭小に勤務した。帝展に《坂のある風景》で初入選、昭和13年頃に秋田美術会(在京美術会)の世話役をしていた。昭和12年2月3日、37歳で死去した。

栗林東一郎
明治39年秋田市保戸野八丁新町生まれ。昭和5年に東京美術学校を卒業、四国の今治高女教諭を経て、昭和8年に秋田市に帰り秋田高女に勤めた。水彩画を得意とし、日本水彩画会に所属していた。昭和15年、34歳で死去した。

秋田(14)-ネット検索で出てこない画家

文献:秋田書画人伝