江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

秋田(11)-ネット検索で出てこない画家

明治期の画家(3)
国安竹陵
文政11年11月秋田市生まれ。名は庫治、光徳。俳号は梅の屋。宮沢水寮に師事。明治23年秋田に伝神画会を起こした一人で、幹事となり美術の振興を図った。明治16年6月17日、56歳で死去した。

江☆晩香(☆は「巾」+「者」)
文化2年4月10日大館市裏町生まれ。名は通寛、通称は味右衛門、字は子厚。父は通貞。書を晁子風に学び、万芸に秀でていたといわれる。明治14年9月5日死去。

渡辺暁山
文政6年7月23日生まれ。秋田藩士。本名は成美、通称は藤治。父は渡辺秀、母は押田氏の出。藩校明徳館の書記、地方調べ役など役人生活を続け、県の副参事も勤めた。晩年は秋田市楢山追回町に住み、自適の生活を送り、山水の画をよくした。明治21年12月5日、66歳で死去した。

近松栄和
文政4年生まれ。本名は遠藤昌益。字は立敬、別号に雪翁、得宜園がある。父は永昌。湯沢城代の佐竹南家のお抱え絵師的存在だった。幼君佐竹義誠の時代、重臣山方家と原田家の間で争いが絶えず「湯沢の伊達騒動」といわれたが、近松はこの争いの中にあって原田家批判の立場をとり、原田の家紋をつけた武士を描いてその上に「世の中は女ですわる娑婆の二字」と地口を書いて風刺した。これが筆渦となり江戸に逃れた。のちに帰郷して矢島領城内に身を寄せ、近松姓を名乗った。この筆渦事件の時の絵は湯沢市の個人宅に残っている。他にも個人蔵《馬頭観音》《がま仙人》など作品は多く残っており、秋田市川反「いくよ」には大作の屏風がある。明治22年、北海道で69歳で死去した。

渡辺雲嶺
明治期の湯沢市の画家。近松栄和の門人。

庄司香渓
天保2年10月生まれ。名は清梧、初号は鳳斎、晩年になり香渓と号した。北秋田郡森吉町阿仁前田の一素封家として知られる庄司家八代で、19歳で庄司家を相続した。香渓29歳の時、久保田明徳館の漢学者・森田岑の紹介で、平福穂庵が前田にやってきた。穂庵16歳の頃で、この時に描いた惣内の滝の絵が庄司家に残っている。香渓は絵画のほか、漢詩、俳句もよくし、小鳥の愛好家としても多くのエピソードを残している。明治25年4月18日死去。

佐藤幽美
明治3年8月14日生まれ。本名は勇美。小学校を出たあと上京し平福穂庵に師事するが、病弱のため続かず、帰郷して二十代で死去した。

仏国
文政12年新潟県中蒲原郡横越村字江ノ口生まれ。由利郡象潟町蚶満寺の三十六世。仏国道益大和尚。絵は蘭と達磨を得意とした。明治28年10月死去。

武田泉斎
通称は親親房。明治30年頃死去。

払川芥圃
秋田市保戸野の画家。名は易蔵。沢畑松嶺に師事した。明治30年死去。

秋田(11)-ネット検索で出てこない画家

文献:秋田書画人伝