湯田玉水(1879-1929)は、明治12年、福島県南会津郡田島町(現在の南会津町)に生まれた。田島は明治の廃藩置県で福島県になったが、かつては幕府の直轄地で、北関東と商業的な交流などもあり、独特の文化を築いていた。そんな環境のなかで育った玉水は、幼いころから画を好み、南会津の歌人で南画家だった大森南岳に絵の手ほどきを受けた。
21歳まで農業に従事し、のちに日露戦争に出征、28歳の時に本格的に画家を志して上京、同郷の東京大学総長・山川健次郎の書生として住み込み、四条派の川端玉章の画塾に通った。しかし、次第に南画に傾倒するようになり、大正2年玉章のもとを離れて独学で南画を志した。
大正11年には、新しい南画の創造を目指して田近竹邨らが創設した日本南画院に評議員として迎えられ、その後同人となり、日本南画院展出品に力を注ぎ、次々と意欲作を発表していった。この頃から渇筆の研究をはじめ、この技法を駆使した画風は注目され、新南画の中心作家として活躍した。昭和2年には会津出身で初めての頒布会を開くほどになったが、昭和4年に51歳で死去した。
湯田玉水(1879-1929)ゆだ・ぎょくすい
明治12年南会津郡田島町生まれ。本名は和平。別号に会津山人、愛山、愚仙山人、玉水山樵、玉水逸民などがある。田島町尋常高等小学校卒業後、家業の醤油製造業を継ぎ、その頃大森南岳に南画を学んだ。明治32年日露戦争に従軍し、帰還後に上京、同郷の東京大学総長・山川健次郎の書生となった。山川の紹介により、四条派の川端玉章に師事、玉水の号をもらうが、大正2年玉章門を離れて独学で南画を志した。大正4年第9回文展に入選。以後文展、帝展に写実味を取り入れた独自の山水画を発表した。また、大正11年からは日本南画院同人となり、同展を中心に活動した。昭和4年、東京において51歳で死去した。
福島(26)-画人伝・INDEX
文献:会津の絵画と書、会津ふるさと大百科、ふくしまの美術 昭和のあゆみ、湯田玉水展、 会津人物事典(画人編)