江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

小荒井豊山と明治期の喜多方地方の画家

小荒井豊山 左:「浪煖桃香図」右:「松と鶴図」

小荒井豊山(1858-1908)は、安政年間に四条派の絵師だった小荒井輪鼎の子として生まれ、幼いころから父に画を学び、のちに上京して滝和亭に師事した。和亭の私塾に6年間在席し、同門の高弟と称されるようになり、帰郷後は、喜多方地方に多くの作品を残し、多くの門人を育てた。

園木華堂(1871-1928)は、豊山に師事したのち、師がかつて在塾した滝和亭の門に入り、花鳥山水の画法を学び「牡丹」を得意とした。大正期には中村不折、川端龍子らと人気を比肩していたという。五十嵐豊岳(1874-1955)も、豊山の流れを受け継いで花鳥山水のすぐれた作品を描き、この画系は豊岳の門人である簗取蕉園(1904-1976)へと続いた。

小荒井豊山(1858-1908)こあらい・ほうざん
安政5年小荒井村寺町生まれ。小荒井輪鼎の二男。本名は武二。別号に蘭谷、井田居士などがある。はじめ円山四条派の画家だった父について絵を学んだ。明治11年に上京して滝和亭に師事し、6年間在塾して同門の高弟になった。帰郷後は、山水花鳥画のすぐれた作品を描き、また、多くの門弟を指導した。明治41年、50歳で死去した。

小荒井輪鼎(1819-1898)こあらい・りんてい
文政2年小荒井組小荒井村生まれ。小荒井豊山の父。本名は小荒井力之助。小荒井村の稲荷神社のそばに住んで桶屋を営んでいた。遠藤香村に師事した。また、俳諧を根本精器に学んだとされる。喜多方画壇の小荒井一門の先駆者で、この地方の文化向上に貢献した。明治31年、79歳で死去した。

園木華堂(1871-1928)そのき・かどう
明治4年細谷村(現在の喜多方市上三宮町)生まれ。本名は千代八。帰郷まもない小荒井豊山に入門した。その後、師の豊山がかつて在塾した滝和亭の門に入り、花鳥山水の画法を学び「牡丹」を得意とした。明治後期の各種展覧会に出品して好評を博した。大正14年に完成したとされる熱塩村の示現寺の格天井画42点のうち「花と蝶」「牡丹」など11点を描いた。昭和3年、57歳で死去した。

五十嵐豊岳(1874-1955)いがらし・ほうがく
明治7年川吉新田町(現在の山都町)生まれ。名は倉蔵。小荒井豊山に入門した。師豊山の流れを受け継いで、花鳥山水画のすぐれた作品を描いた。晩年は襖絵や絵馬を多く描いた。昭和30年、81歳で死去した。

高橋金年(1883-1946)たかはし・きんねん
明治16年熊倉村小沼沢生まれ。本名は金六。別号に月の屋主人がある。農業を営んでいたが、山仕事で足を痛めたことで農業をやめ、画才を生かして画の道に進んだ。輪鼎・豊山に師事したとも、仙台の出身で会津にたびたび来遊した熊耳耕年に師事したともされる。人物画、仏画を得意とした。晩年は新道の柳の湯に住んでいた。昭和21年、63歳で死去した。

芥川梯岳(1889-1925)あくたがわ・ていがく
明治22年松山村村松生まれ。本名は兵市。寺崎広業に師事し、人物、花鳥画を描いた。大正5年と大正9年に画会を開いた。大正11年に福島民報社主催による「福島県出身画家展覧会」に会津出身者として出品した。大正14年福陽美術会展覧会に出品。大正14年、35歳で死去した。

小野寺鶮流(1846-1915)おのでら・かくりゅう
弘化2年塩川中屋敷生まれ。幼名は源之助、のちに源七。慶応2年本郷の小野寺源之助の婿養子となり小野寺家を継いだが、のちに生家に戻った。模写などによる独学か、誰に師事したかは不明である。明治20年頃には三春地方を漫遊し、明治29年喜多方町東四ツ谷に住みはじめた。その後、画家として20年間活動した。明治30年には第1回全国絵画共進会で三等賞を受賞。大正4年、69歳で死去した。

簗取蕉園(1904-1976)やなとり・しょうえん
明治37年関柴村関柴生まれ。本名は初。別号に北関堂がある。昭和2年頃、五十嵐豊岳に学び、のちに野出蕉雨に師事した。蕉雨没後は上京して勝田蕉琴に指導を受けた。帰郷して家業のかたわら制作活動を続けた。牡丹を得意とした。昭和51年、70歳で死去した。

福島(23)-画人伝・INDEX

文献:喜多方地方の画人展、会津人物事典(画人編)