洋風画の開拓者・平賀源内(1728-1780)が秋田藩を訪れた際に、小田野直武(1749-1780)、佐竹曙山(1748-1785)に西洋画法を伝えて「秋田蘭画」が誕生した。その後を継いだのが司馬江漢(1747-1818)で、江漢は本格的な西洋画法で写実的な風景画を描き、日本最初の銅版画「三囲図」を制作した。
江漢の後に出たのが須賀川出身の亜欧堂田善(1748-1822)である。田善は、ほかの洋風画家たちと同世代だが、50歳を過ぎてから江戸に出たため、活躍期が一世代遅く、作品の制作時期は文化年間が中心となっている。田善は、江漢によって確立された洋風表現に江戸の風俗を加味した新しい風景画を創出し、また、実用的な銅版画を完成させた。
須賀川の農具商の家に生まれた田善が、白河藩主・松平定信に画才を見出され、重用され始めるのは47歳の時からである。寛政6年、幕府老中職を辞した定信は、白河に戻り領内を巡視していた。その途中、須賀川に立ち寄り、田善の描いた屏風「江戸芝愛宕図」を目にとめ、その出来ばえに感心し、さっそく谷文晁に入門させることにした。この偶然の出会いがなければ、田善は、その後も蘭学や銅版画にかかわることなく、一介の町絵師として生涯を送っていたと思われる。
49歳で白河藩御用絵師となった田善は、白河会津町に屋敷を構えていたが、翌年江戸に呼び出され、定信の命により銅版画の技術を学ぶべく司馬江漢に弟子入りした。しかし、性格があわず短期間で破門されたため、定信やその周辺にいた蘭学者らの協力を得て銅版画を研究、江戸の人物や風俗を織り込んだ表現で田善独自の風景銅版画を完成させ、結果として江漢の技術を凌ぐほどになった。
また、実用的な面にも銅版画技術を活かし、宇田川玄真が著した『医範提綱』の挿絵として、日本最初の銅版画による解剖図「医範提綱内象銅版図」を制作した。また、文化7年には12年の歳月をかけ、官製の日本最初となる銅版画による世界地図「新訂万国全図」を完成させた。文化9年、定信の隠居を機に、田善は須賀川に帰り、以後は町絵師として余生を送った。
亜欧堂田善(1748-1822)あおうどう・でんぜん
寛延元年須賀川町生まれ。農具商を営む永田惣四郎の二男。本名は永田善吉。別号に亜欧陳人などがある。8歳の時に父と死別し、家業は長兄の丈吉が継いだが、のちに染物業に転職した。兄は狩野派を学び昆山と号し、異国染を発案した。善吉は兄に絵を学びながら家業を手伝った。宝暦12年、15歳の時に須賀川に住んでいた遠藤義房の依頼により絵馬「源頼義水請之図」を須賀川白山寺に奉納。安永元年、25歳の時に伊勢の画僧・月僊に入門したとされる。寛政6年白河藩主・松平定信に取り立てられ、谷文晁に入門した。その後銅版画技法を独修し、文化2年銅版画「驪山比翼塚」を制作。文化4年銅版画「多賀城碑」を制作。文化5年「医範提綱内象銅版図」を制作。文化6年高橋景保編「新鐫総界全図」を銅版画で制作。文化11年銅版画「陸奥国石川郡大隈瀧芭蕉翁碑之図」を制作。定信の隠居後は須賀川に帰郷した。『永田由緒』には銅版画用具一式を門人の八木屋半助に譲ったとある。文政5年、75歳で死去した。
永田崑山(1737-1791)ながた・こんざん
元文2年生まれ。名は丈吉。亜欧堂田善の兄。染物業を営みながら狩野派の絵を学び、安永5年には将軍徳川家治の日光参拝に際して日光廟彩色修復に白河藩主松平定邦の命により従事。須賀川地方の社寺に奉納された絵馬が残されている。主な絵馬としては、江持羽黒神社の「大江山の図絵巻」、玉川村滝見不動堂の「橋弁慶の図絵馬」、鏡石町八幡神社の「義経八艘跳びの図絵馬」、法光寺の「放駒の図杉戸」などがある。寛政3年、55歳で死去した。
福島(10)-画人伝・INDEX
文献:亜欧堂田善作品集(須賀川市立博物館図録)、亜欧堂田善とその系譜、ふくしま近世の画人たち、福島画人伝、白河を駆け抜けた作家たち、定信と文晁、東北画人伝