江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

狩野探幽門下四天王のひとり、会津藩御用絵師・加藤遠澤

加藤遠澤「富岳図」

会津藩絵師の加藤遠澤(1643-1730)は、幼いころから雪舟の画風を志し、保科正之が会津藩主になった際には茶坊主となり、藩絵師の棚木良悦に絵の手ほどきを受けた。19歳で狩野探幽に入門し、30歳の頃には師のすすめで雅号を「遠澤」に改め、同門の久隅守景、鶴澤探山、桃田柳栄らとともに、探幽門下の四天王のひとりに数えられるようになった。

同じ四天王の久隅守景が、早くから名声を得ていたのとは対照的に、地道な画業を展開していた遠澤は、その誠実な人柄から師からの信頼は厚く、探幽の死の際には、並みいる高弟のなかから遺児・探信、探雪の教育を託された。遠澤は事の重大さを自覚し、生涯独身を通すことを心に決めたという。

遠澤は、探幽こそが画家の頂点だと考えていたようだが、ほかにも狩野正信と雪舟を高く評価していた。雪舟への傾倒は幼いころからであり、自らの弟子たちにも師の画風を模倣するだけではなく、雪舟を意識するように教えていた。

遠澤の作画姿勢をみた探幽門下の四天王のひとり・桃田柳栄は、自らも独自の画風を確立しようと、昼夜となく精を出し、夏の夜は大盤へ水を入れて半身を浸し、間断なく描いていたが、ついに命を落とすこととなり、遠澤は、自分が殺したようなものだと惜しんでいたという逸話が残っている。ちなみに柳栄の画は探幽風で、落款印章のないものは探幽作になっていたという。

遠澤は生涯独身だったため、画系は一代で終わった。竹内澤與ら数人の門人がおり、また遠澤の画風を踏襲しようとした画人も少なくなかったが、遠澤の家を継ぐものはなかった。

加藤遠澤(1643-1730)かとう・えんたく
寛永20年生まれ。出生地については江戸または若松城下の説がある。名は守行、幼名は玄甫、通称は五郎兵衛。加藤九郎右衛門の三男。父勝宗は肥後熊本の出身で江戸時代初期の会津領主・加藤嘉明に従って会津に来往したといわれる。寛永20年に会津藩主になった保科正之の茶坊主になった。幼時より雪舟の画風を志し、会津藩絵師・棚木良悦について学び、19歳で狩野探幽に入門し、探幽門下の四天王のひとりに数えられるようになった。第3代藩主・松平正容に画技を賞され、会津藩お抱え絵師となり、江戸藩邸に屋敷を与えられた。門人としては、安藤遠雪、安藤遠佐、竹内澤與らがいる。享保15年、88歳で死去した。

安藤遠佐(1701-1763)あんどう・えんさ
元禄14年生まれ。会津藩の歩卒で井上清吉と称したが、のちに江戸の加藤遠澤に学んだ。遠澤の仮弟子・遠雪の婿となって家を継いだ。宝暦13年、62歳で死去した。

福島(2)-画人伝・INDEX

文献:遠澤と探幽 会津藩御抱絵師加藤遠澤の芸術、福島県立博物館紀要(通号12)「会津藩御抱絵師加藤遠澤の基礎的研究」、ふくしま近世の画人たち、会津の絵画と書、会津人物事典(画人編)、東北画人伝