江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

日本初のユネスコ世界記憶遺産・山本作兵衛の炭坑記録画

山本作兵衛

筑豊炭田の中心地である嘉穂郡に生まれた山本作兵衛(1892-1984)は、7歳のころから親の手伝いで坑内で働きはじめ、以来50年以上を炭坑労働者としてヤマとともに生きた。当初は高度経済成長とともに発展していた炭坑だが、石炭産業合理化により衰退、閉山が相次ぐようになった。炭鉱の閉鎖により夜警宿直員として働いていた作兵衛は、消え行く炭坑の様子を子孫に伝えなければならないという思いから、66歳の時に墨絵による記録画を描きはじめた。その絵が関係者の目にとまり、『明治・大正炭坑絵巻』として出版されると、そこに描かれた炭坑労働の実態が多くの人々に衝撃を与えた。その後もさまざまは依頼に応じて炭坑画の制作を行ない、昭和59年に92歳で没するまでにる膨大な量の作品を描き続けた。没後の平成23年、記録画および日記や雑記帳などが、日本で初めてユネスコの世界記憶遺産に登録された。

山本作兵衛(1892-1984)やまもと・さくべえ
明治25年福岡県嘉穂郡笠松村(現飯塚市)生まれ。父の福太郎は遠賀川で川舟船頭をしていた。7歳の時、石炭の鉄道輸送開始に伴って仕事量が減り川舟船頭をやめた父につれられ、一家で上三緒炭坑に移住した。この頃から、兄と共に炭坑の仕事を手伝うようになり、家族とともにヤマを転々とした。17歳の時に絵描きになるべく、福岡市下新川端町のペンキ屋「ペン梅」に弟子入りし、暇あるごとに絵を描いていたが、父の病によりやむなく山内坑に戻ることになった。その後は各地の炭坑を転々とし、約50年を坑夫として過ごした。昭和15年から長尾位登炭鉱で働いていたが、昭和30年に閉山したため資材警備員として残り、2年後に本社事務所夜警宿直員になった。昭和33年、66歳の時に子孫のために消え行く炭坑の姿を描き残すことを思い立ち、炭坑の記録画を画用紙と墨で描くようになった。炭坑での労働や生活の一部始終が克明に記されたこれらの作品群は『筑豊炭坑絵巻』においてまとめられ、炭坑の記録画家・山本作兵衛の評価は確固たるものとなっていった。昭和59年に92歳で死去するまで残した記録画は1000点を超えるといわれる。そのうち、没後の平成23年、田川市と福岡県立大学が所蔵する記録画589点および日記や雑記帳など計697点が、日本で初めてユネスコの世界記憶遺産に登録された。

井上為次郎(1898-1970)いのうえ・ためじろう
明治31年福岡県宗像生まれ。長崎から北海道までの炭坑を渡り歩いた。炭坑の絵を描きはじめたのは昭和32年に閉山となった笹原炭坑で働いていた頃と考えられる。残存する作品は18点と少ない。昭和45年、72歳で死去した。

原田大鳳(1901-1973)はらだ・たいほう
明治34年生まれ。本名は観吾。10代後半から筑豊の大手炭鉱である貝島炭礦の保安員として働いた。20代の頃に福岡県飯塚市の画家に師事し、鯉の画を得意とした。昭和13年に社命により貝島炭鉱大之浦六坑の様子を描いた。昭和48年、72歳で死去した。

山近剛太郎(1902-1990)やまちか・ごうたろう
明治35年生まれ。大正15年に貝島炭鉱に入社。若い頃から画に関心があり、坑内の様子をスケッチで残していた。昭和22年から24年頃に福岡で画塾を主宰していた洋画家・手島貢に師事した。昭和45年頃から本格的に炭鉱記録画に取り組むようになり、宮田町石炭記念館の開館に伴う炭鉱記録の作成にも関わった。平成2年、88歳で死去した。

島津輝雄(1927-1975)しまづ・てるお
昭和2年飯塚市生まれ。幼いころから両親について炭坑に下り、14歳で坑内作業員として働きはじめた。筑豊の炭鉱を転々とし、新目尾鉱の閉山を最後に坑内作業員をやめ、その後「炭坑は消え行く」と題した自叙伝を書き、その挿絵として記録画を制作した。昭和50年、48歳で死去した。

福岡(24)-画人伝・INDEX

文献:山本作兵衛と炭鉱の記録、山本作兵衛展