久留米生まれの高島野十郎(1890-1975)は、昭和50年に85歳で没するまで、どの団体にも属さず、福岡と東京で開いた数少ない個展を唯一の発表の場とした。「画壇と全く無縁になる事が小生の研究と精進」との信念のもと、美術の流行や画壇の趨勢には見向きもせず、自然のみを師とし、自己の信じる写実に徹した。生涯でその名が広く知られることはなかったが、近年開催された展覧会によって、その独自の画境が知られることとなり、自己の信念に誠実に生きた生涯が人々を魅了し、多くの愛好家を生み出した。
大正期から長年に渡り描き続けられた「蝋燭図」は、個展で発表することなく、知人や友人に分け与えられた。野十郎自身は生涯を通じて「絵は売り物ではない」という信念のもと活動していたが、東京帝国大学時代の学友たちがパトロンとなり絵を購入したり、知人に斡旋したりして活動をささえた。友人たちは、野十郎の絵が世に知れ渡り、彼の生活が維持できるようにと奔走したが、「高島野十郎」の名を生前に高めることはできなかった。
高島野十郎(1890-1975)たかしまや・じゅうろう
明治23年福岡県三井郡合川村(現久留米市)生まれ。本名は弥寿、字は光雄。裕福な醸造家の四男。父は南画をたしなみ、叔父の大倉正愛は東京美術学校西洋画科を出た洋画家。さらに長兄の詩人・高島宇朗は青木繁との交流があり、幼少時から絵に対する関心が培われる環境にあった。美術学校への進学を志したが、父の許可が得られず、明治45年東京帝国大学農学部水産学科に入学した。大正5年同学科を首席で卒業し、研究者としての前途を嘱望されたが、画家への道を選んだ。絵は師や画塾に学ぶことなく、すべて独学で、初期から一貫して細密な写実を手掛けた。坂本繁二郎ら久留米出身の画家たちとは交流があった。昭和3年、間部時雄や五味清吉らと「黒牛会」を結成、特定の芸術的主張を掲げたのではなく、互いの研鑽を計る少人数の集いにすぎなかったが、野十郎にとっては生涯唯一のグループ活動となった。
昭和4年、39歳の時に美術研究のために渡欧し、数年間欧州に遊んだ。アメリカを経由してパリに滞在、ドイツやオランダ、イタリアへも足を伸ばした。現地でも誰かに師事することなく、欧州に滞在していた日本人画家と交流することもなく、ひとり美術館や教会を見て周り、現地での制作に勤しんだ。昭和8年に帰国し、その後は故郷の福岡から東京の青山、そして千葉県柏市へと居を変えながら、小さなアトリエと旅先を行き来する生活を続けた。団体展などには出品せず、個展だけを発表の場とし、あまり他の画家たちと交わることもなかった。昭和50年、85歳で死去した。
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