江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

教育者や本草学者としても知られた岡不崩

岡不崩「群蝶図」

岡不崩(1869-1940)は、越前大野藩士の長男として福井県大野町(現在の大野市)に生まれた。幼いころに両親を亡くし、祖母の弟をたよって上京、その後狩野友信や狩野芳崖参考)に師事し、芳崖の門下生として同郷の岡倉秋水らとともに「芳崖四天王」の一人に数えられるようになった。

山水画や花鳥画を得意とし、鑑画会や真美会などの展覧会に出品していた。芳崖没後は、岡倉天心の勧めもあり東京美術学校に入学したが、ほどなく退学して東京高等師範学校の教壇にたち、その後も教育者として近代日本画の発展に貢献した。小説家の永井荷風の絵の師としても知られる。

また、本草学者としても知られ、明治42年には、当時流行していた朝顔栽培の手引書である『朝顔図説と培養法』を刊行したほか、朝顔に関する著書が数冊ある。ほかにも本草学に関する著書として『万葉集草木考』『古典草木雑考』などがあり、前者は本草学の名著として知られる。

岡不崩(1869-1940)おか・ふほう 
明治2年福井県大野町(現在の大野市)生まれ。本姓は名和、名は吉寿、幼名は又太郎。初号は蒼石。明治13年上京。狩野友信に洋画を学び、のちに狩野芳崖について本格的に日本画をはじめた。明治22年東京美術学校に入学したが、翌年東京高等師範学校の講師に抜擢されたため美校を退学し、毛筆画の教育に尽力した。明治28年同校を退職して九州に赴き、長崎の私立活水女学校、私立中学玖嶋学館の教壇にたった。明治33年東京に帰り、府立第二高等学校兼第二高等女学校教師となった。明治35年同志と真美会を創立して再び美術活動を展開し、明治40年の東京勧業博覧会の委員となった。晩年は画壇から離れ、古事、古典を研究し、大正11年、白井光太郎と「本草会」を創設した。著書に『万葉集草木考』『古典草木雑考』などがある。昭和15年、72歳で死去した。

福井(21)-画人伝・INDEX

文献:福井の明治美術、日本美術院百年史1巻上