「夢楽洞万司」は、一世紀以上にわたって受け継がれた絵師の雅号で、代々越前を中心に北陸地方で活躍した。明和から寛政期に活動した初代万司の万屋曽兵(または大岡曽平)は、好んで「万司(大)お仙人」の号を用い、それに加えて「夢楽人」「夢楽庵」などを冠していたが、のちに「夢楽洞万司仙人」をよく名乗るようになった。
その後、およそ4~5代にわたり「夢楽洞万司」の雅号は受け継がれ、工房かつ店舗であったと推定される「夢楽洞」で製作・販売された絵馬や天神掛軸は、旅の土産品や祭りの記念品として江戸時代の半ばから幕末・明治初期にかけて大流行した。
夢楽洞万司(初代)(不明-不明)むらくどう・まんし
夢楽洞の初代絵師。万屋曽兵または大岡曽平。別号に万司仙人、三光堂、苔古庵、夢楽庵、夢楽人がある。はじめは娯楽本位の俳諧として人気を博した「雑俳」の選者(師匠)として活躍し、越前各地で雑俳句合を興行していた。大野市木落(白山神社)、池田町常安(日野宮神社)、美山町折立(白山神社)、松岡町上吉野(蔵王権現社)には、万司仙人が選者をつとめた雑俳句額が奉納されている。
福井(18)-画人伝・INDEX
文献:夢楽洞万司の世界