江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

自適にして名を求めず・中村生海

平井顕斎「楼閣山水図」

平井顕斎(1802-1856)は、福田半香と並び称されながらも、画壇にあって不遇であり門弟に恵まれたともいえない。顕斎の門弟は出生地の川崎地方と浜松地方に多く、浜松に思斎の子、樋口如璋、曳馬村に中村翠濤と中村松塢、積志村に栩木夷白、斎藤秋山ら、浜名湖の東岸雄踏町に中村簡斎、中村生海の兄弟がいた。その中にあって、中村生海は顕斎の筆意を受け継ぎ、衣鉢を伝える逸材の声が高かった。しかし、生海は悠々と生き、決して名を求めなかったため、広く画名を知られることはなかった。

中村生海(1834-1903) なかむら・せいかい
天保5年5月宇布見村生まれ。中村重三郎の子。名は恕、字は碧、はじめ碧水と号したが、まもなく生海とした。通称は房次郎。14歳の時に平井顕斎の門に入り学ぶ。以来、顕斎の遊歴に従いつつ画を学び、安政3年4月に顕斎が三州岡崎で病死するまで、必ず随伴していた。顕斎死去の時、生海は23歳だった。

生海は顕斎から非常に愛され将来を嘱目されていた。福田半香からもその手腕を認められており、半香は人に「顕斎は実にいい後継者を持っている。自分には鈴木香峰があって、その将来に期待するものがあるが、香峰の技も若い生海にはなお及ばざるものがある。うらやましい弟子だ」と言っていた。

顕斎の死後、生海は故山の家に帰り、その後は誰にも師事せず、顕斎からの教えを守り研鑚に努めた。渡辺小華は生海を評して「顕斎、半香没後、独り乃父の山水を伝うるもの、唯この翁に存するのみ」とした。また、田中梅崖は遠州の七不思議の一つとして「僕遠州に来り不思議の念に堪へざるは、生海の画技遥かに青の上にありながら、人青を知りて生海を知らず」と記している。

生海は茶道をたしなみ、生涯怒声を発したり、軽はずみに人を批判したりすることはなかったという。悠々自適に俗塵を絶って絵筆をとり、決して名を求めることのない人生を送り、明治36年3月21日、70歳で死去した。

遠州(5)画人伝・INDEX

文献:遠州画人伝