愛媛生まれで「俳聖」と称される正岡子規は、単なる俳人としてとらえられる人物ではなかった。新聞記者や雑誌の創刊など多彩な活動をし、絵も描いた。子規のまわりには、おなじ間口の広さを持った文士や画家たちが集まった。子規に俳句の才能を見出され、絵もよく描いた夏目漱石、絵画から書へと筆を持ち替えた中村不折、愛媛洋画の先駆者でありながら子規との出会いにより俳画に転向した下村為山らはみなそうした存在だった。
正岡子規(1867-1902)は、少年時代から絵画に親しみ、北斎の画道独稽古の写本を作ったり、松山藩士の吉田蔵澤の墨竹画に親しむなどしていた。邦画について明確な意見を持ったうえで、中村不折や下村為山ら周囲の画家たちと熱心に美術論を戦わせた。新聞「小日本」では中村不折を挿絵画家に採用、雑誌「ホトトギス」では浅井忠、中村不折、下村為山らにより我が国に装飾美術、商業美術を大きく広める契機を作った。子規は日本における絵画の新しい「場」の形成に深くかかわったといえる。
夏目漱石(1867-1916)の俳句の才能を最初に認めたのは、同い年の子規だった。漱石は元来英語教師であり、子規とその仲間たちと出会わなければ、一介の英語教師で終わっていたかもしれない。漱石は、俳句のみならず何をしても巧みで、絵画においても、南画、水彩、墨画、油絵など、いろいろと試している。四君子などをよく描いたが、竹をもっとも好んで描いた。これは漱石が吉田蔵澤を好んでいたことによるもので、友人の森円月が漱石に蔵澤の墨竹画を贈ったところ、礼状とともに「蔵澤の竹を得てより露の庵」とよんだ短冊が送られてきたという。子規の没後、「ホトトギス」に「吾輩は猫である」「ぼっちゃん」を発表し、文壇での地位を不動のものとした。
中村不折(1866-1943)と子規は、浅井忠の仲介で知り合った。不折は、子規に写生論のヒントを与えた一人とされる。子規が編集していた新聞「小日本」に挿絵画家としてデビューし、以降子規たちとともに雑誌「ホトトギス」などの装丁や挿絵を手掛けた。また図案、表紙絵、挿絵などの募集を「ホトトギス」が行なった時に、選者をつとめ、次世代の主力となる画家を採用した。
下村為山(1865-1949)は愛媛の洋画の先駆者であり、小山正太郎の不同舎で同門の中村不折と並び称されたが、従兄の内藤鳴雪の紹介で正岡子規と出会ってから俳句に熱中し、やがて洋画を離れ、俳画を描くようになった。浅井忠や中村不折とともに「ホトトギス」の図案も手掛けている。
内藤鳴雪(1847-1926)は俳人であり教育家で、「ホトトギス」の選者もつとめた。少年時代に子規に漢詩の指導をしており、子規の創作活動を最も早くから見ている。鳴雪は生涯、子規のよき理解者であり、鳴雪がいなければ子規の活動がどうなったかわからないともいわれる。鳴雪は下村為山の従兄にあたり、絵も達者で、ユーモアのある画賛を多く残している。ペンネームの「鳴雪」は「世事はなりゆきにまかせる」から得たもので、別号の「老梅居」は「狼狽している」から出ているという。皆から「翁」の敬称で呼ばれ、子規派の長老として重きをなしていた。
明月(1727-1797)
享保12年周防国生まれ。書家・真宗円光寺の僧侶。字は曇寧。別号に義道、明逸などがある。15歳で円光寺に入り、のちに京都へ遊学、堺で王羲之や顔真卿風に学んだ。34歳で円光寺に戻り、古文辞学を松山藩儒者の杉山熊台に授け、また詩文を松山藩町奉行・宇佐美淡斎に教えた。52歳で円光寺を退き、博物学的な書物を著した。明月和尚の書は松山の宝と称され、子規には「冬さびぬ蔵澤の竹明月の書」の句があり、明月の書を吉田蔵澤の画とともに大切にしていた。 寛政9年、71歳で死去した。
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