江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

伊予の南画、全盛から現代南画へ

林涛光 左:「石槌画賛」賛:半井梧菴、右:「面白の滝画賛」賛:半井梧菴

吉田蔵澤(1722-1802)やその門人たちによって確立されていった伊予南画は、しだいに広がりを見せる。小松藩絵師となった森田南濤(1808-1872)は文晁派の春木南湖に学び、その流れは門人の林涛光(1832-1913)によって引き継がれた。伊予の朱子学者・近藤篤山に学んだ長尾慶蔵(1834-1872)も南画をよくした。さらに、伊予南画の双璧と謳われた天野方壺(1824-1895)と続木君樵(1835-1883)の出現により、伊予南画は全盛を迎える。全国的にみると、その後の南画は、幕末から明治初期にかけて衰退していくことになるのだが、伊予の地にあっては、三好藍石(1838-1923)や野田青石(1860-1930)らの活躍は、昭和初期になっても色あせることはなく、現代南画の世界においても、日本南画院の設立に参加した矢野橋村(1890-1965)らへと連綿と続いている。

林涛光(1832-1913)
天保3年生まれ。森田南濤に師事し、文晁派らしい緻密な描写力で伊予の名勝を描いた。今治の国学者・半井梧庵の著書『愛媛面影』に挿絵を担当した。明治初期に描いた真景の掛け軸「石鎚画賛」と「面白滝画賛」には半井梧庵が賛を書いており、両者の親密ぶりが伝わる。大正2年、82歳で死去した。

森田南濤(1808-1872)
文化5年小松生まれ。小松藩士・森田森蔵元利の三男。19歳の時に江戸に出て、春木南湖の門に学んだ。山水花卉を得意とし、38歳で小松藩絵師となった。明治5年、64歳で死去した。

長尾慶蔵(1834-1872)
天保5年宇摩郡関川村上野生まれ。近藤篤山に師事して漢学を学んだ。また、人物画をよくした。明治5年、87歳で死去した。

矢野圭洲(1838-1915)
天保9年壬生川の保内神社に生まれた。本名は矢野治美。京都の南画家・上田公圭に師事し、のちに帰郷して閑居した。人物、花鳥画を得意とした。大正4年、広島において78歳で死去した。

大西黙堂(1851-1921)
嘉永4年川之江町井地生まれ。本名は為一(為市とも書いた)、別号に黙仙、黙遷がある。大西家は質屋をし、サトウキビから製糖もしていた。黙堂は生まれつき言葉が不自由で、幼いころから書画に親しみ、明治の初めころに絵の修業のために京都へ出て、浅井柳塘に師事、水墨画を学び、師匠や画友らと全国をまわってスケッチをした。明治19年東洋絵画共進会で三等賞、同34年全国南画共進会で三等賞、41年関西南画会全国絵画展で二等賞を受賞した。大正10年、71歳で死去した。

鱸亀峰(1857-1902)
安政4年生まれ。名は藤馬。名草逸峰に師事した。人物、花鳥、山水いずれにもすぐれ、将来を嘱望されていたが、明治35年、46歳で死去した。

中神靄外(1859-1941)
安政6年松山生まれ。武智五友に漢学を、名草逸峰、鉄翁祖門、木下逸雲に南宗画を学び、山水を得意とした。昭和16年、83歳で死去した。

野田青石 左:帰去来図、中:秋声賦意図、右:雁来紅雄鶏図

野田青石(1860-1930)
万延元年生まれ。八幡浜矢野町の庄屋・野田美陳の孫。名は純太郎。別号に孤雲、如雲居士がある。上甲振洋に経書を学び、父・南山及び荒木鉄操に画法を習い、さらに明治11年に豊後の帆足杏雨について学んだ。京都相国寺の荻野独園に参禅し、さらに帰郷し大法寺の西山禾山に参禅して心眼を養った。また、大阪の藤沢南岳について詩文を学び、時に名山勝地を訪ねて画材を探し、大家と交わって画技を深めた。明治25年、コロンブス世界博覧会に桃源の図を出品して奨励賞を受賞、以来各地の共進会に出品して褒賞を受けた。昭和5年、70歳で死去した。

矢野橋村(1890-1965)
明治23年越智郡波止浜町生まれ。本名は一智。別号に知道人、大来山人、古心庵がある。18歳で大阪に出て、砲兵工場で働いていた時に事故で左手首を失った。20歳で南画家・永松春洋の門に入り、大正3年、25歳の時に文展に初入選、褒賞を受けた。以後も文展に出品、院展が再興されると出品して院友となるが、次第に既成団体から離れていった。大正5年に主潮社を設立、同10年には日本南画院設立に参加し、昭和11年の解散まで出品した。また、大正13年に大阪美術学校を設立、校長となり後進の育成に尽力した。昭和2年から再び帝展に出品、翌年特選となり、同8年には帝展審査員となった。36年には日本芸術院賞を受賞した。古川英治「宮本武蔵」など多くの新聞挿絵を担当している。昭和40年、76歳で死去した。

矢野鉄山(1894-1975)
明治27年越智郡波止浜町生まれ。本名は民雄。矢野橋村の甥。幼いころから画を好み、18歳の時に上京して小室翠雲に師事した。同13年に叔父の橋村が大阪美術学校を開設したため、それを機に大阪に移り、同校で学んだ。大正9年、第2回帝展に初入選し、以後も文展、日展に出品した。大正10年の日本南画院創設にともない、師の翠雲や橋村とともに参加、昭和11年の日本南画院解散の翌年には、橋村、菅楯彦、小松均、中川一政、津田青楓、八百谷冷泉らと墨人会倶楽部を結成した。昭和14年、橋村を中心とした乾坤社を結成、大阪美術学校を拠点に公募展を5回開催した。昭和18年には新文展の審査員をつとめ、戦後も日展審査員をたびたびつとめた。昭和43年、全日本水墨画協会を創立、水墨画の振興に尽力した。昭和50年、81歳で死去した。

愛媛(17)画人伝・INDEX

文献:伊予の画人、伊予文人墨客略伝