江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

伊予南画の全盛・続木君樵と周囲の画人

三好藍石「讃岐小豆島寒霞渓秋景之図」

天野方壺の登場で全盛を迎える伊予南画だが、伊予画壇において方壺と双璧と謳われたのが続木君樵(1835-1883)である。君樵は庄屋の家系に生まれ、幼いころから書画に親しんだ。土居町を中心として多くの画人と交わったが、地元の村上鏑邨、川之江の三好鉄香、三好藍石らとは年齢もあまり違わず、弟子とも友人ともいえる間柄であった。とくに三好藍石とは親しく、川之江の三好家に出向いて絵を描き、教え、画論を戦わせていたという。

続木君樵(1835-1883)
天保6年宇摩郡野田村生まれ。名は直、通称は宇多三。別号に六宜道人がある。土居町に残る続木家の記録によると、11歳のころから画を学び、15歳で九州へ修業に出た。安政2年には豊後日田で木本橘巣に学び、文久3年から明治元年まで長崎に行き木下逸雲、鉄翁祖門に学んだ。明治2年に土居町に戻り、明治4年から明治6年まで山陰道に渡り雲伯地方に遊んだ。そして明治7年から一年間、中国に渡って研究を深め、中国から帰国後は郷里で塾を開いたが、その後も出雲、土佐などをまわって修業した。明治16年、尾道において49歳で死去した。

村上鏑邨(1822-1893)
文政5年宇摩郡蕪崎村生まれ。村上安之丞春忠の五男。幼いころから書画を学び、17、8歳の頃に京都へ出て中西耕石について学んだ。蕪崎は勤王の士を輩出したところで、鏑邨が成人した頃は維新が風雲急を告げており、のちに天誅組の乱で失敗する藤本鉄石と血盟相許すなどした。鏑邨が勤王画家と呼ばれる所以である。維新後、絵に打ち込み、明治10年頃には画家としてかなり名声を得たようで、当時の名が上った画家にならい諸国を漫遊した。明治26年2月17日旅先の美方郡浜坂町の「たいや旅館」において71歳で病死した。

三好藍石(1838-1923)
天保9年生まれ。宇摩郡川之江の人。名は貞信、通称は旦三、別号に金螺、江翁がある。阿波の池田に生まれ川之江の素封家・三好鉄香の妹婿になった。青年時代から画を好み、野田村の続木君樵、讃岐の兒島竹處、豊後の木本橘巣らに師事、さらに長崎の木下逸雲、鉄翁祖門らに私淑し、画法を研究した。また、讃岐の山田梅村には詩文、京都の貫名海屋には書を学んだ。南画をよくし、山水を最も得意とした。明治35年ころに門人だった手島石泉が松山織物会社の重役として大阪に出張滞在した時、大阪にも藍石ほどの南画家はいないと感じ、藍石に大阪に出ることを勧めたことから、大阪に出て20年居住し、名を高めた。晩年は川之江に戻って悠々自適に画業に専念した。大正12年、86歳で死去した。

三好鉄香(1836-1885)
天保7年生まれ。川之江の人。本名は三好長慶。遠祖は八幡太郎義家の末裔で、阿波の守護職にして勤王家だった。名は範平。別号に愛石、洋雲、聴雨軒、得月庵がある。素封家で、酒造業を営み、大地主として金融を図り、地方産業の功労者だった。画を続木君樵に学び、南画をよく描いた。明治18年、50歳で死去した。

手島石泉(1852-1947)
嘉永5年越智郡大三島町生まれ。名は正誼。警察官、のち郡長をつとめた。三好藍石に師事した。退官後、鉄翁祖門・木下逸雲に師事し南画を描いた。昭和22年、96歳で死去した。

山内幾太郎(不明-1922)
鉄翁祖門・続木君樵に南画を学び、のちに大坂に出て田能村直入に師事し、山水、花鳥画をよくした。大正11年死去した。

愛媛(16)画人伝・INDEX

文献:伊予の画人、伊予文人墨客略伝