江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

伊予出身の旅絵師・天野方壺、伊予を訪れ作品を残している富岡鉄斎

天野方壺「興居島古和田山海之図」

幕末から明治初期にかけて活躍した伊予出身の南画家に、天野方壺(1824-1895)がいる。その生涯はほとんど不明確だが、諸々の資料をつなぎ合わせると、はじめ三津の四条派の画人・森田樵眠に学び、のちに京都の中林竹洞の門に入り、翌年には着色法を土佐光孚に、書画法を貫名海屋に学び、それから九州薩摩まで旅に出た。弘化元年に京都に戻って日根対山に南派を学び、さらに江戸に出て椿椿山に南派を学んだ。嘉永2年には函館、江差に渡り、翌年にかけて蝦夷の勝景を写生した。同6年になって江戸に戻り橋本雪蕉に学び、万延元年に長崎に行って木下逸雲に学んだのち、肥後、肥前や周辺各地をまわり、さらには明治3年中国に渡り、胡公寿に南派を学んだ。その後長崎に戻り、九州各地を遊んだのち、京都から東海にかけて旅行するなど「旅絵師」として諸国を歴遊した。遊歴の生活は晩年まで続き、岐阜の地で没したとされる。

富岡鉄斎「伊予温泉行幸図」

富岡鉄斎(1836-1924)は、青年時代に伊予出身の国学者・矢野玄道と交流し、維新後には伊予出身の佐々木春子と結婚したこともあり、伊予松山をたびたび訪れている。その際に三津浜の人々の歓迎を受け、多くの画を描いている。伊予に関する画題を取り上げた作品も多い。伊予で鉄斎に学んだ弟子としては、中川秋星・藤田三友父子がいる。

天野方壺は鉄斎ともっとも交流があった伊予の画人とされていて、残された資料によると、旅から旅の生活をしていた方壺だが、鉄斎宅からそう遠くない場所に居を置いていることがわかる。また、鉄斎から伊予の近藤文太郎にあてた書簡によると、方壺が明治19年頃に松山で豪商の求めに応じて作品を描いたことや、再び京都に戻り旅絵師を続けていたこと、妻がいたこと、そして鉄斎の17歳の長男・謙蔵が竹輪を持って方壺宅を訪れていることなどが分かっている。

天野方壺(1824-1894)
文政11年松山三津浜生まれ。通称は大吉、名は俊。別号に葛竹城、景山山本、雲眠、壷翁、壷山人・白雲外史などがある。三津の四条派の画人・森田樵眠に学び、のちに京都に出て中林竹洞の門に入った。数度中国にも渡り、胡公寿らに師事して画技を磨いたとも伝わっている。富岡鉄斎とも交流があったといわれる。岐阜、仙台、高田など全国を旅して歩き、松山城天主閣蔵の「山水花卉図屏風」をはじめ、各地で多くの作品を残している。岐阜高山で没したという説もあるが、その生涯は不明確である。明治27年、67歳で死去した。

富岡春子(1846~1940)
弘化3年生まれ。富岡鉄斎の妻。父佐々木禎蔵、母イクの三女として長浜に生まれた。佐々木家は代々大洲藩の長浜番所に務めていた。19歳で京都の五条家に奉公に出て、明治5年、26歳の時に富岡鉄斎と結婚した。書や歌をよくし、墨絵を書いたり楽焼を好むなど趣味も広く、長浜で幼な友達、知人との交流も深かった。昭和15年、94歳で死去した。

藤田三友(1869-1947)
松山市湊町でカツラ屋を営む風流画人・中川秋星の二男。請われて藤田家を継ぎ三番町に住んでいた。明治6年、父の秋星は風雅の友、永木竹雨宅で富岡鉄斎と知り合い、以後父子ともに鉄斎の画風を学んだ。愛媛美術工芸展委員として活躍。昭和22年、78歳で死去した。

愛媛(15)画人伝・INDEX

文献:伊予の画人、江戸・明治の絵師たちと正岡子規