江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

伊予に四条派を伝えた町絵師・森田樵眠

山本雲渓の活躍期に重なるように現れたのが、松山三津の町絵師・森田樵眠(1795-1872)である。樵眠については詳しい経歴は伝わっていないが、京都に出て岡本豊彦の門で学び、伊予の地に四条派の画風を初めて伝えたらしい。当時の三津の町は、今治の町とならんで内外の海上輸送の拠点として栄えており、参勤交代用藩船の発着港になってからは藩内第一の公道となり、商家があつまり町はにぎわった。強力な財力を得た豪農、庄屋、商人たちは絵画を求めるようになり、樵眠はそれに応じて描いた。当時の商人や町民が絵に触れる場所はあまりなく、寺社や絵馬堂に限られていたことから、注文は絵馬に集中したことから、中予地方一帯には樵眠やその門人による絵馬が大量に残されている。門人には、岡本南雅、惺々堂雲僊、鷲谷石斎、松浦巌暉らがいる。のちに伊予南画の世界に新境地を開いた天野方壷も樵眠の門に学んだとされる。また、京都に出て柴田義董に学んだ藤井梧園(不明-1844)も四条派の画をよくした。

森田樵眠(1795-1872)
寛政7年松山三津生まれ。別号に養神斎、惺々翁、魯樵などがある。京都に出て岡本豊彦に師事し四条派の画法を修め、故郷に戻り三津に絵屋を開いた。中予地方一帯の寺社には豪商や町人たちの求めに応じて、樵眠が描いた絵馬が多く奉納されている。明治5年、78歳で死去した。

鷲谷石斎(1829-1899)
文政12年松山生まれ。本名は横山五兵衛。名は五平、幼名は久次郎。鷲屋石巒の甥。西堀端で染物商を営んでいた。森田樵眠に師事し、武者絵をよくした。大絵馬を得意とし、温泉郡川内町河之内金毘羅寺の「東征将軍御謀叛人生捕図」をはじめ、松前町高忍日売神社、玉生八幡神社、久万ノ台三島宮、大洲八多喜粟津森神社などの大絵馬が石齋の作とされる。開明的な性格で、当時一般人があまり食べなかった牛肉を好み、魚菜類もはしりを好んだという。明治32年、71歳で死去した。

鷲屋石巒(1788-1871)
天明8年広島生まれ。画家・彫刻家。鷲屋石巒の叔父。通称は三十郎、異号は道楽山人。横山石巒とも称した。松山松前町角六という酒屋に奉公中に鷲屋五兵衛に画技を見い出され、長女の婿となる。屋号は「鷲屋」で、明治になって「鷲谷」と改めた。東京都・高輪泉岳寺の義士館に展示されている赤穂四十七士の木像の中の大石良雄像や茨城県・笠間稲荷桜門の二体の随身像などの作品を残している。また、根付もよくした。明治4年、84歳で死去した。

松浦巌暉(不明-1912)
三津浜生まれ。森田樵眠に師事し四条派の画家として京都画壇で名を成した。人物画を得意とし、松山で画塾を開いて多数の門人を養成した。櫻井忠温も松山中学に入ると間もなく兄の鴎村に連れられて入門した。大正元年、死去した。

藤井梧園(1780-1844)
安永9年生まれ。松山の人。松村月渓の高弟・柴田義董に師事し、四条派の画法を修めた。弘化元年、65歳で死去した。

愛媛(12)画人伝・INDEX

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-