江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

宇和島から杵築の安住寺へ、孤高の水墨画家・村上天心

宇和島の豆腐屋の家に生まれた村上天心(1877-1953)は、幼くして父親と死別し、学校で学ぶ機会を得られなかったが、独学で各派の画法を学んだ。さらに、様々な師を求めて、禅、彫刻、仏典、儒学、漢字などの学問を修めた。向上心旺盛で、わずかの間に学問を身につけたという。また、生涯一枚の絵を売ることもなく、独身を貫き、孤高の中で修業と作画に専念した。

明治41年、天心は病弱の母を伴い、湯治のため大分県別府を訪れている。この時に隣室に居合わせたのが杵築市安住寺檀家総代の綾部氏で、その縁でのちに深い親交を結んでいく綾部氏の実弟、安住寺第十四世・綾部玄道和尚と出会うことになる。綾部氏の案内で杵築市寺町の安住寺を訪れた天心は、居並ぶ僧侶の中で一人を指さし「あの人は何という人か」と問いただしたという。その人こそが綾部玄道和尚であり、天心はひざをたたいて「杵築に来てよかった」と玄道和尚との出会いを喜んだという。

大正3年、37歳の時に天心は杵築に移り住み、南台綾部家の別荘や佐野家の別荘に居住、昭和18年からは寺町の安住寺庭園内にある「天心堂」に移り、その後は、昭和28年に75歳で病没するまで、ここで修業と作画に専念した。

天心の作品は宗教画がほとんどで、禅林に画題を求めたものが多い。宇和島での作品は焼失したものが多いが、西江寺には「閻魔大王像」が残っている。また、杵築の安住寺には晩年の作品約200余点が保存されている。庭園内にある天心堂には、多くの遺品が収められ、天心堂の横にある天心自身の監督により建立された「開山堂」には、天井に「圓龍」、壁面には「レリーフ」「開山開堂基十四世」などが収められている。

村上天心(1877-1953)
明治10年宇和島市須賀通生まれ。本名は村上孝義。家業は豆腐屋で、生活は裕福でなかった。貧しくて学校に行けなかった天心は、独学で画を学びながら、6歳の時に吉田の飯淵櫟堂に人文画と書を、10歳の時に大隆寺の韜谷老師に禅を、11歳の時に卯之町の白井雨山に彫刻を、18歳の時に金剛山の葛野空庵に仏典、儒学、漢字を学んだ。生まれが上層とみなされなかったため、評価されることはなかった。このような境遇を十分理解して一切のかかわりを絶ち、絵を通して自己を深めることを決意いたともみられる。大正3年、37歳の時に大分県杵築市に移り、以後約40年間をこの地で過ごした。昭和28年、75歳で死去した。

愛媛(9)画人伝・INDEX

文献:伊予の画人安住寺ホームページ