昭和初期の青森では、大正時代に引き続き、いろいろな美術団体や研究所が立ちあげられた。昭和2年には、東京美術学校を卒業して弘前中学校で美術教師をしていた穴沢赳夫(1899-1946)が、同校の卒業生・黒滝大休(1907-1988)と、在学中の常田健、後藤正二郎、千葉四郎、内海九郎らとで「未青社」を結成した。同会は昭和4年に「紀元社」と改称し、佐藤麻古杜らが新たに加わって活動を続け、昭和初期の青森洋画の発展に貢献した。
女子美術学校在学中から帝展に入選していた橋本花(1905-1983)は、昭和8年に佐伯米子や深沢紅子らと女性画家による新美術家団体連盟を結成、昭和画壇の女性の時代を築いた一人となった。昭和10年には松木満史が青森市に美術学校を開設。そこで石ケ森恒蔵、名久井由蔵、渡辺貞一らが学び、国画会で活躍した。
昭和11年、葛城喜良、進藤正一郎、保坂哲士、古川孝八郎、樋口猛彦、渡辺貞一らが、弘前を中心とした美術展の機会を広げるのを目的に「国土社」を結成、戦中戦後を通じて活動を続けた。昭和16年には川村精一郎を中心に絵画の真髄と追求向上と互いの親睦を図る目的で「美術青森塾」が結成された。
昭和14年にフランスから帰国した松木満史(1906-1971)は、翌15年に洋画の基礎となるデッサンを学ぶ「青森美術研究所」を設立した。終戦後は家族とともに上京するが、昭和22年に単身で帰郷、青森市の堤川の川辺にアトリエを建て、ここを友人や後進が集うサロンのような場とした。
昭和30年には三国慶一、中野桂樹、鷹山宇一らと「青生会」を結成。東奥美術展では審査員をつとめ、青森県の美術界の中心として活躍したが、54歳の時に脳溢血に倒れ、以後筆をとることはなかった。掲載の「ラ・リューヌ」は、倒れる直前に描かれたもので、松木が求めていた光と色彩の調和が最もよく表現された作品と評されている。
松木満史(1906-1971)まつき・まんじ
明治39年西津軽郡木造町生まれ。本名は金七。大正8年小学校卒業後、青森市の仏師・本間正明に師事し仏像彫刻を学んだ。この頃、棟方志功、鷹山宇一、古藤正雄と洋画グループ「青光画社」を結成。大正12年武者小路実篤の「新しき村」運動に共鳴して会員となった。大正15年に上京、木彫が太平洋画展に入選した。同年国展に初入選、以後国画会を中心に活動した。昭和13年に渡仏し、翌年帰国。昭和22年国画会会員となり、同年帰郷し堤川の川辺にアトリエを建て、友人や後進が集うサロンのような場とした。昭和30年三国慶一、中野桂樹、鷹山宇一らと「青生会」を創立。東奥美術展では審査員をつとめた。昭和34年第1回青森県文化賞受賞。同年から東奥日報紙上に「青森県の素描」を63回にわたり連載。昭和37年青森県褒章を受章した。昭和46年、65歳で死去した。
穴沢赳夫(1899-1946)あなざわ・たけお
明治32年下北郡大畑町生まれ。大正14年東京美術学校を卒業後、県立弘前中学校に赴任して美術を担当した。昭和2年に教え子の黒滝大休らと「未青社」を結成。また、尾上柴舟の主宰する「水瓶」の同人として短歌を発表、同中学校在職中に「甲虫短歌会」を結成した。昭和4年同中学校を退職し上京、太平洋展に入選したが、東京空襲のため帰郷、下北郡佐井の磯谷小学校に勤務した。東奥美術展などに出品した。昭和21年、48歳で死去した。
黒滝大休(1907-1988)くろたき・だいきゅう
明治40年弘前市西茂森生まれ。大正10年弘前中学校に入学、在学中に穴沢赳夫が美術担当として赴任してくる。大正15年駒澤大学専門部に入学、昭和2年予科に転じ、本郷絵画研究夜間部にも通った。同年穴沢赳夫らと「未青社」を結成。昭和7年駒澤大学を卒業し、弘前和洋裁高等女学校に就職。以後33年間高校で教鞭をとった。昭和8年に「未青社」を「紀元社」に改称し、新たに佐藤麻古杜らを加えて活動した。昭和32年棟方寅雄と洋画グループ「鼓楼社」を結成。昭和43年弘前美術作家連盟が創設され委員長に就任した。昭和45年弘前博物館建設協議会を結成。昭和63年、81歳で死去した。
橋本花(1905-1983)はしもと・はな
明治38年青森市生まれ。旧姓は原子。大正12年札幌市立北海道高等女学校卒業。大正13年女子美術学校入学。大正15年同校在学中に第7回帝展に初入選。昭和3年同校を卒業。昭和4年橋本八百二と結婚。第13回帝展で特選となった。以後も帝展、新文展、日展で受賞を重ねた。昭和8年に佐伯米子や深沢紅子らと女流画家による新美術家団体連盟を結成した。晩年は青森市筒井にアトリエを構え制作した。昭和58年、78歳で死去した。
青森(40)-画人伝・INDEX
文献:青森県史 文化財編 美術工芸、青森県史叢書・近現代の美術家、青森県近代洋画のあゆみ展、津軽の美術史