江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

写生を重んじ、中央画壇でも活躍した平福穂庵

平福穂庵「乞食図」
明治13年の龍池会主催「観古美術会」に出品された穂庵の出世作。角館の奇人・小田野弥六をモデルにしたとされる。

角館に生まれた平福穂庵は、幼いころから郷里の四条派の画家・武村文海に学び、16歳の時に京都に遊学、特定の師につかず社寺に伝わる古画の模写や風物写生により画技の研鑽につとめた。22歳で帰郷し、家業の染物の上絵描きなどをするとともに画業に励んだ。

明治5年に知人を訪ねて北海道浦河に渡り、その後函館に数年滞在。この間北海道の各地を漫遊し、アイヌの生活を観察して漁猟図などを描いている。
→参考:函館に滞在してアイヌを主題にした絵を描いた平福穂庵

明治13年、第3回秋田博覧会で「乞食図」が一等入賞となり、同年龍池会主催第2回観古美術会でも「乞食図」が褒状を得て、穂庵の名は中央画壇でも知られるようになった。翌14年には再び北海道に渡り函館に住み、当時函館で発行されていた機関紙「巴新報」に挿絵を連載するなどし、明治16年に帰郷した。

明治19年に単身上京、龍池会から宮内省に献上される画帖の揮毫者のひとりに選ばれ、また、伝統美術の振興に重要な役割を果たした美術雑誌「絵画叢誌」の編集や古画の模写にあたるなど、中央画壇でも活躍したが、明治22年に健康を害して帰郷し療養していたが、翌年、47歳で死去した。

志半ばで没することになった穂庵だが、その写生を重んじる精神は、子の平福百穂に受け継がれ、穂庵がつけた中央画壇への道筋は、百穂や門人の寺崎広業がその才能を開花させる足掛かりとなった。

平福穂庵「乳虎」
日比谷公園で展示されていた虎を一週間通いつめて描いた写生図をもとに、病気のため帰郷していた明治22年に角館で描いた穂庵最後の作品。

平福穂庵(1844-1890)ひらふく・すいあん
弘化元年秋田県角館生まれ。平福百穂の父。名は芸、通称は順蔵。初号は文池。父親も絵が好きで染物屋をしていた。はじめ近所の四条派・武村文海に学び、17歳の時に本格的に絵の勉強をするために京都に出たが、師にはつかず写生や古画の模写などで独修した。慶応2年帰郷し、また東京に出て、明治14年竜池会に「乞食図」を出品して認められ、その後は絵画共進会に出品した。明治15年から2年間函館に住み「巴珍報」に挿絵を描き、アイヌを主題にした作品も多く残した。 門人に寺崎広業がいる。明治23年、47歳で死去した。

秋田(20)-画人伝・INDEX

文献:秋田の絵描きそろいぶみ、秋田県立博物館収蔵資料目録、秋田県立近代美術館所蔵作品図録 1994-2003、秋田市立千秋美術館所蔵作品選、秋田書画人伝