江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

秋田蘭画を受け継ぎ江戸系洋風画へと展開させた司馬江漢

司馬江漢「西洋人樽造図」提供:東京国立博物館

秋田蘭画は、小田野直武佐竹曙山を中心に盛り上がりをみせたが、安永8年、直武に西洋画法を伝授した平賀源内の死去にはじまり、翌年には直武が、その5年後には曙山も死去し、創始に関わった人物の相次ぐ死により、その勢いは次第に衰えていった。しかし、秋田蘭画の技術や理論は、江戸で直武、曙山と交流があった司馬江漢によって受け継がれ、さらに洋画色が強いものとなって江戸系洋風画として展開していった。

司馬江漢(1747-1818)は江戸に生まれ、少年期に狩野派を学び、ついで浮世絵師の鈴木春信に師事、さらに宋紫石について南蘋派の写生画風を学び、安永年間(1772-1781)には、平賀源内や小田野直武の影響を受け、洋風画を手掛けるようになった。源内と直武の没後は、蘭学者・前野良沢に入門し、同門の大槻玄沢の協力を得て、蘭書の訳読から銅版画の技法を研究し、天明3年に日本初の腐蝕銅版画(エッチング)の制作に成功した。

天明8年から翌年にかけて長崎に遊学し、寛政年間(1789-1801)には、油絵による洋風画を制作するようになり、西洋風俗や日本風景を題材に描いた。また、寛政11年には佐竹曙山の絵画思想を継承した「西洋画談」を出版。その後も、地理学や天文学などの西洋の自然科学を紹介する多くの書物を出版し、銅版画による「地球全図」や「天球図」も制作した。

晩年には哲学者、社会思想学者としても活躍し、すぐれた随筆を書くなど、絵画だけでなく、多方面で実績を残した奇才・江漢だが、文化5年以降になると、自らの年齢を9歳加算して称するようになり、文化10年には自らの死亡通知を出すなど奇行も目立っていた。

司馬江漢(1747-1818)しば・こうかん
延享4年江戸生まれ。本名は安藤吉次郎、のちに姓を司馬、名は峻、字は君嶽、号を江漢字とした。別号に不言道人、春波楼などがある。はじめ狩野派を学び、ついで鈴木春信の門に入って「春重」の号で美人画を描き、のちに宋紫石に南蘋派の画法を学んだ。安永年間、師紫石と交友のあった平賀源内を知り、洋風画を志し、理論的指導者の源内と実技上の先駆者・小田野直武とともに西洋画の研究をした。二人の没後は前野良沢の門に入り、同門の大槻玄沢の助力を得て、天明3年に日本で初めて腐食銅版画に成功した。寛政年間を中心に多数の油彩を制作し、実景の写生に基づいた日本各地の風景図を西洋の画法で描いた。寛政11年に、佐竹曙山が安永7年に「画法綱領」で説いた内容を継承した「西洋画談」を出版した。文政元年、72歳で死去した。

秋田(10)-画人伝・INDEX

文献:洋画の先覚者・司馬江漢展、文献:秋田蘭画展、小田野直武と秋田蘭画