江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

渡仏していた絶頂期に失明した石原長光

石原長光「裸婦」山梨県立美術館蔵

石原長光(1886-1950)は、山梨県東八代郡竹原村(現在の笛吹市)に生まれた。17歳で上京し、神田の語学学校で英語を学ぶかたわら白馬会絵画研究所に入所、黒田清輝和田英作らに師事し、葵橋研究所時代を含めて約10年間外光派の薫陶を受け、白馬会展に出品した。

大正5年、白馬会をやめ、中国旅行に出かけた。旅はおよそ7ヶ月に及び、同年の10月に帰国。帰国後は生活のために小説の挿絵を手がけるなどしていたが、大正10年、郷里の土地を処分して資金を得てフランスに渡った。横浜から出航した船の同乗者には、坂本繁二郎、硲伊之助、林倭衛、小出楢重らがいた。

パリでは坂本繁二郎とともに、アカデミー・コラロッシでシャルル・ゲランに師事した。坂本が半年後の3月にはゲランの教室をやめているのに対して、石原は他の画家のようにフランスやヨーロッパ各地を旅することもなく、勤勉にゲランの教室に通い続け、ゲランも石原の画才を高く評価していた。

将来を嘱望され、ひたすら制作活動に精を出していた石原だったが、渡仏して2年目を迎えた大正12年の春、結核性の眼病が原因で右目を失明してしまう。さらに左目も悪化し、恐怖を感じながらも同地で制作を継続していたが、ついに帰国を決意、その年の晩秋には帰国したが、年明けには左目も失明した。

両目の失明により制作活動を断念した石原だったが、友人たちの勧めで大正13年の第5回帝展に、帰国の船を待ちつつ残る左目で描いた「立てる女」を出品した。結果は、フランス画壇の空気を色濃く伝える作品と称賛され、初入選を果たした。さらに翌年の第12回光風会展にも渡欧期の作品2点を出品し、新設された光風会賞を受賞した。

同年、画家生命を断たれた石原の生活を救うため、「失明画家石原長光君滞欧作品頒布展覧会」と名づけられた頒布会が、和田三造、南薫造、大隅為三らが発起人となって東京と大阪の二カ所で開催された。帝展入選と光風会賞の受賞に加え、画家の絶頂期に失明するという悲劇的なエピソードが注目され、その才能を惜しむ声が多くの新聞雑誌に掲載された。

この年、石原は家族らとともに山梨に帰郷した。その後の山梨での生活は、絵画から離れた心静かなものだったという。

石原長光(1886-1950)いしはら・ちょうこう
明治19年山梨県東八代郡竹原村(現在の笛吹市)生まれ。17歳で上京し、語学を学びつつ白馬会絵画研究所に通った。大正5年中国を旅する。大正10年、35歳の時に渡仏。アカデミー・コロラッシに入学しシャルル・ゲランに師事した。ゲランにもその才能を認められていたが、大正12年春に結核性の眼病で右目を失明。帰国後、治療につとめたが、左目も失明した。大正13年第5回帝展で「立てる女」が初入選。大正14年渡仏時代の作品「エチュード」および「少女」が12回光風会賞を受賞。同年、和田三造らが発起人となって滞欧作品頒布会が開かれた。同年一家で山梨に帰った。昭和25年、64歳で死去した。

山梨(23)-画人伝・INDEX

文献:山梨の近代美術、山梨県立美術館コレクション選 日本美術編、山梨県立美術館蔵品総目録5 2000-2007、山梨県立美術館研究紀要第24号(石原長光 研究ノート)