山梨県巨摩郡布施村(現在の中央市)に生まれた中澤年章(1864-1924)は、22歳の時に上京して浮世絵師・月岡芳年に師事した。どのような経緯で芳年に入門したのかは定かではないが、芳年は甲府を何度か訪れており、道祖神幕をはじめ多くの作品を残していることから、なんらかの縁故によって入門したと考えられている。
東京での年章の画業を記録した詳しい史料は残っていないが、芳年の内弟子として起居をともにし制作に専念していたと思われ、その期間は、芳年が没するまでの6年半くらいと思われる。東京在住は12年余りで、在住中に20数点の錦絵を木版で出版している。
年章が最も錦絵制作に関わったのは明治28、29年頃で、この頃は日清戦争に関する錦絵が多く出版された時期で、当時の浮世絵師たちはこぞって戦争画を描いており、年章の錦絵もほとんどが戦争画に関連したものだが、ほかに歴史画や美人画なども制作している。
掲載の「見立雪月花之内 五條橋の月」は、明治30年に発行されたもので、雪月花シリーズのうちの「月」だと思われるが、ほかの「雪」と「花」は見つかっていない。年章の錦絵には、手前に描いた主要人物の背後に別の人物を小さく配置するという傾向がみられることが指摘されている。
明治31年帰郷し、その後はほとんど山梨を出ることなく、県内に多くの肉筆画を残している。帰郷の理由は定かではないが、明治27年にアメリカで発明された写真銅版の印刷技術が日本にも普及し、浮世絵版画師の需要が減少したこともその要因と思われる。
帰郷後は郷里の小井川の生家に滞在したのちに県内を転々とし、人の求めに応じて絵を描いていたと思われる。年章の住所が定まるのは大正に入ってからで、画塾を開いていたことが伝えられており、旧三日町(現在の中央四丁目辺)の太田源七、中村英一、加藤肇らが少年時代に絵を習っている。また、この頃甲府の汲古館で画会を開いている。
大正7年から以前長期滞在した韮崎市の若宮神社神主の藤原家に再び寄寓したと思われ、年章没年の大正10年当時の出納簿が残っている。それによると、年章は画料の大半を酒代にあて、春画も描いていたようである。年章が没した地については『中巨摩郡誌』に「大正十年東都に客死す」とあり、藤原家を出て、上京したのちに死亡したと思われるが、ほかにも異説があり定かではない。
中澤年章(1864-1924)なかざわ・としあき
元治元年山梨県巨摩郡布施村(現在の中央市)生まれ。本名は延太郎。別号に幽斎がある。明治18年浮世絵師を志して上京、月岡芳年に師事した。戦争画を中心とした錦絵を発表し、その他美人画、風景画を描いた。明治31年に帰郷し、晩年は県内各地で肉筆画を数多く残し、歴史画、美人画をよくした。版画の代表作には「日本艦隊強勇威海衛ヲ撃破之図」など日清戦争を扱ったものや「女禮裁縫図」「源平盛衰図」などがある。大正10年、58歳で死去した。
山梨(12)-画人伝・INDEX
文献:山梨の近代美術、山梨県立美術館蔵品総目録6 2008-2015、山梨県立近代美術館研究紀要4