朝倉家は五代続いた周防徳山藩御用絵師の家系で、朝倉南陵(1757-1844)はその四代にあたる。初代繁経は、表具師として徳山藩に召し抱えられ、雲谷派の雲谷等恕に学んで、等収を名乗った。繁経の長男である二代友信は、雲谷等全に学んで等月を名乗り、父を手伝い家督を相続したが、二男の不祥事のため朝倉家は一時断絶した。友信の没後に長男の友明が雲谷等徴に学んで等栄の名を許され、朝倉家を再興させたが、その翌年友明は死去した。友明の没後、親族らによって養子に迎えられたのが朝倉家四代となる朝倉南陵である。南陵が御用絵師をつとめた寛政年間には、伊能忠敬による全国の測量事業が始まっており、南陵は、文化年間にかけて領内絵図の作成に専心するとともに多くの作品を残した。画風は、雲谷派風、円山派風、南画風とさまざまな画派の影響がみられるが、晩年に描いた南蘋風のものに優作が多い。南陵のあとは、三男の朝倉震陵(1798-1871)が継いだ。ほかに徳山の画人としては、田能村竹田系の南画家である上田田単(1830-不明)がこの地に永く住み、多くの作品を残し、津本柳塘(1854-1939)らの門人を育てている。
朝倉南陵(1757-1844)
宝暦6年生まれ。徳山藩御用絵師。徳山藩浪人阿武六郎左衛門晴俊の長男。幼名は喜代槌、通称は銀之丞、のちに湖内。明和4年徳山藩御用絵師朝倉友明家に養子に入り、安永元年、雲谷等徴・等竺に師事して画技の基礎を身に付け、安永3年には雲谷家より等遠(のちに等圭)と号することを許された。その後の10年あまりの消息は明らかでないが、天明5年には江戸に出て雲谷派以外の画風を本格的学ぶ機会を得て、翌年南蘋派の岩井江雲について学び、江雲より「江雪」の号を許された。江戸からの帰郷後、天明8年には、萩の雲谷等竺のもとで画技をみがいた。天保14年、87歳で死去した。
朝倉震陵(1798-1871)
寛政10年生まれ。徳山藩御用絵師。朝倉南陵の三男。名は直逞、通称は三郎、喜作、八代吉、牧太、奇石軒。画を雲谷等徴に学び、のちに江戸に出て谷文晁に師事した。徳山に帰ってからは、父南陵の画業を手伝い、天保2年家督を相続した。天保9年から震陵と名乗り、天保13年雲谷家より等☆(☆は「燐」の「火」を「王」に)の名を許された。元治元年に退隠、明治4年、74歳で死去した。
上田田単(1830-不明)
天保元年生まれ。別号に李壮之、北竹山人がある。田能村竹田に師事し、永く徳山に住んでおり、周南地区には多くの作品が残っている。門人に津本柳塘がおり、藤本木田も私淑したとされる。
津本柳塘(1854-1939)
安政元年徳山生まれ。名は庄兵衛。別号に吐墨庵、得山居士などがある。徳山に滞在していた上田田単に師事した。各地を遊歴し、小室翠雲らとも交友した。晩年は徳山に帰った。昭和14年、86歳で死去した。
藤本木田(1895-1987)
明治28年香川生まれ。田中柏陰に師事し、上田田単にも私淑したと伝わる。永く徳山に住み、作画と門弟の指導にあたった。周南地区に師事した者が多い。昭和62年、92歳で死去した。
奥田蘭雪(1832-1893)
天保3年生まれ。徳山藩士。幼いころから画を好み、柳田雲屋に学んだ。江戸邸に勤務の際には、津和野藩士で南画家の山本琴石の指導を受け、花鳥を得意とした。明治26年、62歳で死去した。
伊藤石僊(1862-不明)
文久2年生まれ。周防の南画家として知られ、森琴石の門人と思われる。
中村瑛舟(1890-1952)
明治23年新南陽市福川生まれ。大阪で四条派の深田直城に学び、花鳥を得意とした。昭和12年頃に徳島に移り住んだ。昭和27年、63歳で死去した。
山口(7)-画人伝・INDEX
文献:山口県の美術、防長人物誌、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで