富山町(現在の富山市)とその周辺地域は、江戸時代から売薬業が盛んで、日本一の産地だった。売薬商人は、販路拡大のために天保年間頃までには進物商法を始めたとみられ、その最初の進物は、名所絵や役者絵を印刷した「売薬版画」で、これは、おまけ商法の元祖の一つといわれている。
当初は、江戸浮世絵の縮刷版が制作されていたようだが、天保年間末頃には富山在住の絵師・松浦守美が活動を始め、その後は守美の作品が多くを占めるようになった。画題は、江戸浮世絵の影響が強かったせいか、役者芝居絵が主流で、福神を題材とした福絵も人気があったようである。
明治20年代から30年代初めにかけて売薬版画は最盛期を迎え、尾竹国一(尾竹越堂)をはじめとする数多くの絵師や版元が活動した。国一は新潟に生まれたが、早くから富山で売薬版画の下絵制作に携わっており、その兄を頼って2人の弟国観と竹坡も富山に移り、三兄弟で売薬版画の下絵や新聞挿絵の制作に取り組み人気を博した。
尾竹三兄弟の活躍で盛り上がりをみせた売薬版画だったが、印刷技術の進歩とともに、版画の制作方法も手作業の木版から石版画での大量印刷へと変化していき、その希少価値が失われ、明治30年代半ば以降になると売薬進物の主流は紙風船へと移り、売薬版画は大正から昭和初期にかけて姿を消していった。
松浦守美(1824-1896)まつうら・もりよし
文政7年八人町生まれ。応真斎守美とも称した。絵師・松浦安兵衛(雪玉斎春信)の子。通称は安平。別号に守義、国義、森義などがある。富山藩お抱え絵師の山下守胤に師事し、富山藩主前田利保の絵所預となり、師の守胤とともに『本草通串証図』の下絵を描いた。明治になって多くの売薬版画を描き、今日残るものだけでも200余点ある。ほかに絵馬や絵入り俳書、絵俳書の下絵も描いた。明治19年、63歳で死去した。
尾竹国一(1868-1932)おたけ・くにかず
→尾竹越堂
富山(09)-画人伝・INDEX
文献:美術館紹介 富山市売薬資料館 富山浮世絵の紹介、山下守胤と松浦守美の俳諧一枚摺、とやま 版 越中版画から現代の版表現まで