江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

日本画壇とパリ画壇の双方で活躍した川島理一郎

川島理一郎「ナポリよりポッツォリを望む」栃木県立美術館蔵

足利市に生まれた川島理一郎(1886-1971)は、幼いころから母の実家がある東京で育った。19歳のときにニューヨークで雑貨商を営む父を頼って単身渡米、パブリック・スクールを卒業後は、父の仕事を手伝いながらワシントンの商業学校に通った。一方で徐々に美術への関心を高めていき、コーコラン美術学校の夜学から高校卒業と同時に本科に移り、4年制課程を2年で修了し、同年ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに特待生として入学、卒業後、25歳の時に画家になる決意をかためてフランスに渡った。

パリではアカデミー・ジュリアンで人体デッサンなどを学んでいたが、当時のパリ画壇は、第一次世界大戦前のエコール・ド・パリの成熟期で、新しい美術運動のうねりは高く、川島も独自の絵画を模索するうちに、西洋文明の源泉である古代ギリシャ美術に魅了されていった。少し遅れて日本からやってきた藤田嗣治と二人でパリ郊外に土地を買い、日常生活のすべてにわたって考える限りのギリシャ化を試みたりもした。

第一次世界大戦勃発の際には、パリ在留邦人の帰国命令に反して、藤田とともに残留し、戦時下における生活苦にあえぎながら、エコール・ド・パリの画家たちと交流し旺盛な制作活動を展開、当時新しい美術運動のメッカとされたサロン・ドートンヌに日本人として初めて入選した。川島の画家としての骨格は、ほとんどこの時期に形成されたといえる。

その後、アメリカをまわって、大正8年14年ぶりに帰国。その後も日本とヨーロッパとの往還を重ね、サロン・ドートンヌ会員としてパリ画壇で活躍するとともに、日本画壇においても、国画創作協会、白日会など美術団体の創立に参加し、日展では理事、顧問などを歴任、日本芸術院会員になるなど、官展系の中心作家として活躍した。

川島理一郎(1886-1971)かわしま・りいちろう
明治19年足利市生まれ。幼いころから母の実家のある東京で育った。明治38年19歳で渡米、翌年パブリックスクールを卒業すると、父の仕事を手伝いながらワシントンの商業学校に通った。もともと美術に強い関心をもっておりコーコラン美術学校の夜学から高校卒業と同時に本科に移り、コンポジション・クラスの一等賞をとるなど、才能を発揮し、4年制課程を2年で卒業して、同年ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに特待生として入学。明治44年同校を優秀な成績で卒業すると、画家になる決意をかためて渡仏した。パリではアカデミー・ジュリアンなどで学び、一時期は藤田嗣治と共同で生活し、エコール・ド・パリの作家たちと交流、たびたびマチスのアトリエを訪問し、その芸術に接し影響を受けた。大正2年サロン・ドートンヌに日本人として初めて入選。その後はアメリカに戻って大正8年、14年ぶりに帰国した。それ以後は、日本と欧州との往還を重ねて日本画壇とパリ画壇の双方で活躍した。大正11年サロン・ドートンヌ会員。大正13年中沢弘光と白日会を創立。大正15年梅原龍三郎らと国画創作協会第二部の創立に参加。旅を好み、中国、朝鮮、東南アジアへ写生旅行に出かけて各地の風俗や風景を描いたが、戦時中は従軍画家として中国、タイ、フィリピンに赴いた。昭和12年以降、新文展、日展の審査員をつとめた。昭和11年女子美術専門学校教授。昭和23年には日本芸術院会員になった。昭和30年新世紀美術協会の創立に参加。昭和33年日展が新日展になると理事や顧問を歴任した。昭和46年、85歳で死去した。

栃木(23)-画人伝・INDEX

文献:ゆく河の流れ-美術と旅と物語、色彩の旅人、栃木県の美術、栃木県歴史人物事典