現在の佐野市に生まれた小堀鞆音(1864-1931)は、20歳頃に上京、土佐派の川崎千虎について歴史画を学んだ。明治25年には岡倉天心を会頭とする日本青年絵画協会に創立会員として参加。明治30年東京美術学校の助教授となったが、天心の校長辞任に伴い横山大観らとともに辞任し、翌年天心が創立した日本美術院に正員として参加した。
明治35年には水野年方とともに歴史風俗画会を設立、明治40年に創立された文展の審査員もつとめた。明治41年には東京美術学校に教授として復帰、安田靫彦、尾竹国観ら多くの門弟を育てた。有識故実(朝廷や武家の礼式などを研究する学問)の研究を深め、大和絵の筆使いを活かした新しい歴史画を開拓し、「近代歴史画の父」と称されている。
小堀鞆音(1864-1931)こぼり・ともと
文久4年安蘇郡小中村(現在の佐野市)生まれ。本名は桂三郎。父は須藤晏斎。長兄も桂雲と号した南画家。はじめ琢舟、ついで雨舟と号した。明治16年小堀家を継ぎ、翌年第2回内国絵画共進会に入選して上京。川崎千虎に師事し有識故実を学んだ。明治19年から博物館、皇居造営事務局、明治21年商務省特許局で装飾下図の制作に従事するかたわら、古画の模写に携わり、明治22年には美術雑誌「絵画叢誌」の本版挿図のための模写を行なった。明治23年の第3回内国絵画共進会、明治28年の第4回内国絵画共進会で連続して妙技三等賞を受賞した。明治25年岡倉天心を会頭とする日本青年絵画協会に参加。明治29年に日本絵画協会に参加し、第1回展と翌年の第2回展で連続銅牌、第3回展で銀牌、第4回展で銅牌を得た。明治30年東京美術学校助教授となったが、岡倉天心の校長辞任に伴い横山大観らとともに辞任し、天心の日本美術院創立に正員として参加、翌年谷中の日本美術院いわゆる八屋屋に移り住み、日本美術院、日本絵画協会連合展に出品した。明治35年水野年方とともに歴史風俗画会を設立。初期文展の審査員を歴任し、国画玉成会評議員になった。明治41年東京美術学校に教授として復帰、大正6年帝室技芸員、大正8年帝国美術院会員、昭和4年には国宝保存会委員をつとめた。昭和6年、68歳で死去した。
栃木(16)-画人伝・INDEX
文献:小堀鞆音展 近代歴史画の父、北関東の近代美術