江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

幕末明治を生きた俠気の南画家・田崎草雲

田崎草雲「山村団欒図」

江戸の足利藩邸に生まれた田崎草雲(1815-1898)は、幼いころから親戚の金井烏洲に画を学び、その後川崎の隠士・加藤梅翁に入門し、四条派のほか和歌や俳句を学んだ。20歳の時に本格的に画を学ぶため足利藩を脱藩し、翌年、春木南溟に師事、谷文晁や渡辺崋山に私淑した。この間、嘉永6年に足利藩主・戸田忠文に藩の絵師として登用されている。

若いころは剣道の達人で、生来俠気があり、幕末・維新の動乱期には足利に帰り、民兵養成策を藩主に建言した。自らは農商家の子弟を集めて「誠心隊」を組織し、総司令として奔走した。しかし、草雲の子・格太郎は佐幕派だったため、父と争う立場に置かれてしまい、ついには自刃して果ててしまう。

維新後は再び画道に専念し、足利町(現在の足利市)蓮岱寺山麓に画室「白石山房」を建て南画制作に励んだが、幕末から明治にかけて隆盛をみた南画は、新しい日本画運動の波が押し寄せるなか徐々に衰退していく。草雲は、そのような状況のなか、脱俗性、反権力性を指針とした文人精神を貫き、多彩な表現の研究をして激しく変化する日本絵画の近代化に対応していこうとした。

その流れは、群馬県館林出身の小室翠雲を経て、大正末期から昭和初期にかけて新南画運動を展開した石川寒巌に受け継がれていった。

田崎草雲(1815-1898)たざき・そううん
文化12年江戸神田小川町の足利藩邸生まれ。幼名は瑞白、のちに恒太郎、名は芸。雅号の草雲は名の芸の字を二つに分けて草、雲としたという。初号は梅渓、別号に白石生、白石山房、硯田農夫、硯田農舎、七里香草堂、蓮岱山人、蓮岱画屋などがある。はじめ金井烏洲に学び、その後足利藩を脱藩して諸国を歩き、明の仇英や銭滄洲、柳松年、盛茂燁などの図巻を研究し、沈石田や除熙に私淑した。若いときは剣道の達人で「暴れ梅渓」などといわれた。侠気があり、明治維新の際は足利に帰り、勤王党のため尽力した。また画塾を開いて門人を育成した。明治23年帝室技室員となった。明治天皇御居間の襖、天井、杉戸など皇居造営の際にはその任にあたった。明治15年第1回絵画共進会に出品。明治31年、84歳で死去した。

栃木(14)-画人伝・INDEX

文献:幕末明治を生きた俠気の画家、北関東の文人画