高久靄厓(1796-1843)は、寛政8年、奥州街道筋の杉渡戸(現在の栃木県那須塩原市黒磯)に生まれた。家は貧しかったが、幼いころから画を好み、7、8歳のころに自画自刻したという天神像の板木が伝わっている。18歳の時には鮎図の名手として知られた小泉斐に絵の手ほどきを受け、その影響を受けたと思われる鮎図も残っている。
その後、今市宿や鹿沼宿で煙草職人をしながら画を描いていたが、20歳ころにはその画才は既に多くの人が知るところとなり、地元文人らの支援を受けて27歳の時に江戸に上り、谷文晁の門人となった。文晁の画塾写山楼では、中国絵画をはじめ、多くの古画や粉本類に触れて研鑽を積み、渡辺崋山、椿椿山、立原杏所とともに、文晁門四哲のひとりに数えられるようになった。
42歳の時、江戸移住を決意し、妻を伴って日本橋橘町四丁目に住まいを移し、翌年には両国薬研堀に居を構え、「晩成山房」と称した画房で画業のほかに書画鑑定も業とし名声を得た。写山楼では崋山や椿山ら同門の画人たちと親しく交わり、崋山が蛮社の獄に連座して蟄居となった際には、椿山らとともに崋山救済の画会を開いた。
48歳で急逝したが、靄厓に実子はなく、画系が失われることを惜しんだ江戸の豪商・大橋淡雅らの勧めで、白河の川勝隆古が高久家へ養子に入り、跡を継ぐことになった。隆古は、靄厓とは趣を異とする彩り豊かな画風を展開するが、のちに高久家から離れ、地方を遊歴するなど精力的に活動したが、49歳で急逝し、靄厓と同じ谷中の天龍院に葬られた。
参考:復古大和絵を学び、のちに谷文晁門下の高久靄厓の後を継ぎ、大和絵と南画を融合した画風を確立した高久隆古
高久靄厓(1796-1843)たかく・あいがい
寛政8年那須郡杉渡戸生まれ。父・傳兵衛は、奥州街道宿場の馬方をしたのち、鹿沼の楡木に移住し、亀屋の屋号で露天商を営んでいたとされる。幼いころから画を好み、はじめ羽黒藩画員・小泉斐に学び、のちに壬生藩画員・平出雪耕にも入門したとみられる。その後、今市宿や鹿沼宿で煙草職人として生活しながら、鹿沼宿の橋田幸介、鈴木松亭、山口安良らの援助を受け、画技を磨いた。文政6年、谷文晁の写山楼に入門、渡辺崋山、椿椿山、立原杏所とともに文晁門四哲のひとりとして知られるようになった。また、池大雅に私淑し、大雅風の作品を多く残した。さらに、諸家所蔵の古書画展観のため北陸や仙台方面を遊歴し、京坂の文人たちとも交流を深めた。この間も常に鹿沼を本拠地としていたが、天保8年、江戸移住を決意し、日本橋橘町四丁目に住まいを移し、天保9年には両国薬研堀に居を構え、晩成山房と称する画房で画家としての画業のほか書画鑑定を業とした。杏所や菊池淡雅の紹介で、渡辺崋山との親交が深まったのもこのころで、天保10年に蛮社の獄で崋山が捕らえられると、淡雅らと救援活動をした。天保14年、48歳で死去した。
栃木(12)-画人伝・INDEX
文献:没後170年高久靄厓作品展、江戸文人画の彩り~高久靄厓とその師友~、栃木の美術、栃木県歴史人物事典