江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

井伊直弼の墓守に生涯をささげた彦根藩士・遠城謙道

遠城謙道 右:画賛「夏は又…」、左:画賛「三百年大祭典」

遠城謙道(1823-1901)は、彦根藩士の鉄砲足軽の子として生まれた。謙道が藩の足軽をつとめていた38歳の時、幕府の大老もつとめていた彦根藩主・井伊直弼が桜田門外で暗殺されるという大事件が起きた。幕府の政権は反井伊派の手にわたり、彦根藩は領地の一部を取り上げられ、代々の京都守護役も罷免されてしまった。

謙道はこの処分を不服とし、江戸に出て老中宅前で直訴を試みたが失敗に終わり、彦根に送還されて謹慎処分となった。悲憤にくれた謙道は、出家して主君・直弼の墓掃除に一生をささげることを決意し、妻子を残して江戸に出て、世田谷豪徳寺にある直弼の墓を78歳で没するまで37年間守り続けた。

画は岸竹堂(参考)とも関係したと思われる吉田雪斎に学んだとされるが、師の雪斎の経歴についてはよく分かっていない。謙道は、感ずるところがあれば、和歌や俳句、時には詩文をあらわし、好んで俳画を描いたという。画の題材としては、直弼の顕彰をはじめ、旧知の人の供養、季節物などが主で、清廉な人柄が慕われたこともあって、多くの人が作品を求めたという。

遠城謙道(1823-1901)おんじょう・けんどう
文政6年彦根生まれ。旧彦根藩士。彦根藩鉄砲足軽・遠城平之助の長男。通称は平右衛門。15歳で鉄砲隊に入り、医術、儒学、画を学び、特に禅の修行に励んだ。安政7年の桜田門外の変における大老・井伊直弼の死に際して出家し「謙道」と称した。慶応元年に妻子を残し江戸に出て井伊家の菩提寺・豪徳寺に移り、終生直弼の墓守をした。明治34年、78歳で死去した。

滋賀(19)-画人伝・INDEX

文献:彦根ゆかりの画人、近江の画人