江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

尾張の狩野派・初期画人

清野一幸「釈迦三尊図」

尾張におけるまとまった絵画制作は、名古屋城の障壁画制作にはじまった。この制作には、当時の狩野派の主流であった画人たちが多く参加した。尾張関係の狩野派の初期画人としては、加賀了順、伊島牧斎、清野一幸らがいる。牧斎は17世紀の中頃には尾張藩に仕えていたが、その詳細は不明で、同時期に活動した清野一幸が尾張藩最初の御用絵師と考えられる。一幸は20年間、尾張藩の御用絵師をつとめ、現役のまま没し、その後を子、孫が代々継ぎ、それが途切れると、江戸の浜町狩野家から今村随学が派遣され、代々御用絵師をつとめた。

清野一幸(不明ー元禄年中)きよの・いっこう
江戸木挽町狩野初代尚信に学び、師の描法を守った。名は重信、別号に円成、童翁がある。尾張藩に招かれ尾張藩御用絵師の祖となる。寛文・延宝年間にもっとも活躍し、盛んに寺院の障壁、杉戸、屏風に描いたが、落款を施さなかったため、作品が特定できないものが多い。

清野養山(不明-不明)きよの・ようざん
江戸木挽町狩野二代尚信の門人。清野一幸の子。名は常進、別号に円如、一成がある。一幸の没後、元禄の初め尾張藩に召され、元禄8年尾張藩御用絵師となり、12年に円如から養山に改めた。中天和尚、太郎庵、岩間治信、吉川知信ら多くの門人を育てた。

清野円嘉(不明-1760)きよの・えんか
別号に蔵主、円常がある。養山の子。享保7年尾張藩御用絵師となった。寛政4年から茶道役を兼ねる。宝暦10年死去。

清野円斎(不明-不明)きよの・えんさい
名は庄吉。円嘉の子。父の没後尾張藩に仕えるが、もっぱら茶道役をつとめた。

加賀了順(不明-不明)かが・りょうじゅん
狩野永徳の庶子。尾張藩初代藩主義直に仕えた。子孫は画業を廃した。

伊島牧斎「架鷹図」

伊島牧斎(不明-不明)いじま・ぼくさい
鷹匠の家に生まれ、幼少より画を好み、狩野安信に学んだ。別号に朴斎、卜斎がある。慶安元年頃尾張藩に仕え、扶持十人分を得たと伝えられる。鷹および鳥類を得意とし、竹腰家書院障壁画にインコの絵を描いた。名古屋城二之丸御殿迎凉閣に鶴図襖絵が残っている。

南部一翁(不明-不明)なんぶ・いちおう
通称は十一左衛門。別号に松寿軒がある。伊島牧斎の門人で、義直に仕え、鷹の絵を得意とした。

土岐某(不明-不明)ときぼう
義直に仕え、鷹の絵を得意とした。

平川徳順(不明-不明)ひらかわ・とくじゅん
義直に仕え、鷹の絵を得意とした。

永原権兵衛(不明-不明)ながはら・ごんべえ
竹腰家の家人。義直に仕え、鷹の絵を得意とした。

今村随学(不明-1792)いまむら・ずいがく
江戸浜町狩野三代常川幸信の門人。明和4年尾張藩御用絵師になった。天明8年村上養寿を養子に迎えた。寛政5年死去。

今村養寿(不明-1808)いまむら・ようじゅ
江戸木挽町狩野七代養川院惟信の門人。天明8年村上家を出て今村随学の養子となり、寛政6年尾張藩御用絵師となった。文化5年死去。

今村晴雲(不明-1826)いまむら・せいうん
江戸木挽町狩野九代晴川院養信の門人。今村養寿の長男。はじめ玉真と称した。字は碧峰、別号は竹斎。文化11年尾張藩御用絵師となった。文政9年死去。

今村惟完(不明-不明)いまむら・ゆいかん
今村養寿の子。晴雲の弟。

今村真静(不明-不明)いまむら・しんせい
今村晴雲の長男。文政10年尾張藩に仕えた。

今村勝渓(不明-不明)いまむら・しょうけい
文政年間から元治年間頃の尾張藩御用絵師。真静と同一人物とも考えられる。

尾張(1)画人伝・INDEX

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史