上方の浮世絵師たちは師弟関係などによって、いくつかの小集団を形成していたと思われるが、本名や経歴が分かっている絵師は少なく、その実態はあまり明瞭に分かっていない。そのなかで際立ってまとまりが明らかな一団として、狂歌師でもある寿好堂よし国が結成した「寿好堂社」がある。
同社中からは狂歌のつながりで多美国、梅国、清国、芝国、とし国、彦国ら多くの門人たちが出て役者絵を描いている。名前の頭に「よし」がつくか、末に「国」がつく者がその構成員であることが多い。
好画堂多美国(不明-不明)こうがどう・たみくに
大坂の人。寿好堂よし国の門人。文政年間に活躍し、文政4年頃からの作例が確認できる。役者絵を描いた。
寿暁堂梅国(不明-不明)じゅぎょうどう・うめくに
大坂の人。寿好堂よし国の門人。文化13年に大坂薩摩座上演の「義経腰越状」に取材した役者絵「五斗兵衛 中村十蔵」を描いたほかは、文政6年から10年頃の活動が確認できる。
寿曙堂清国(不明-不明)じゅしょどう・きよくに
大坂の人。寿好堂よし国の門人。文政9年に数点の作品が確認できるのみ。師のよし国や同時代の主要絵師たちに倣った画風で役者絵を描いた。
西光亭芝国(不明-不明)さいこうてい・しばくに
大坂の人。寿好堂よし国の門人。文政4年から9年頃に活動した。師のよし国や同時代の主要絵師たちに倣った画風で役者絵を描き、摺物も手掛けた。よし国との合作も多い。
寿陽堂とし国(不明-不明)じゅようどう・としくに
大坂の人。はじめ浅山芦国の門人となり、その後寿好堂よし国の門人となり、さらにその後春好斎北洲の門人となったと考えられる。文化14年頃から活躍し、時代の好みに即して画風を変化させながら役者絵を描いた。
あし川彦国(不明-不明)あしかわ・ひこくに
大坂の人。寿好堂よし国の門人。歌舞伎びいきで、作画したのは文政4年から6年までのわずか3年で、師よし国に倣った画風で役者絵を描いた。この時期、江戸の浮世絵検閲の証として「極」の改印が使用されていたが、上方では使用されることはなかった。にもかかわらず彦国作品には「極」印が確認できることから、江戸での販売も考慮して制作されていたと考えられる。
大阪(61)-画人伝・INDEX
文献:近世大阪画壇、上方の浮世絵-大坂・京都の粋と技、上方浮世絵の世界