江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

明治風俗の琉球美人を形成した友寄喜恒(恵克昌)

友寄喜恒(恵克昌)左:「ジュリ(娼婦)図」、右:「田舎婦女図」東京国立博物館蔵
提供:東京国立博物館 https://webarchives.tnm.jp/

最後の琉球国王・尚泰王の時代に活躍した友寄喜恒(恵克昌)は、明治風俗における琉球美人を形成したといわれている。末吉安恭の『琉球画人伝』によると、それまでの沖縄女性は、根をつめて結う髪型をしていたが、友寄喜恒が絵の中で、根をゆるくして左右に張り広げるように描いたため、髪がひき立って美しく見えると評判になり、「その髪風がまもなく辻の遊女の間に行なわれ、また一般婦女子にもこれを模する者が現れ、これが流行となって新しい明治風俗の琉球美人を形成した」とされている。

また、尚泰王時代に三司官をつとめた亀川盛武(毛允良)、宜野湾朝宏(向有章)も絵の名手として知られた。

友寄喜恒(1845-1885)
1845(弘化2)年那覇生まれ。唐名は恵克昌、恵光翰。石門と号した。はじめ名乗りは喜堯だったが、喜恒に改名した。友寄地筑登之親雲上喜詳(恵興智)の二男。風俗画、人物画を得意とした。廃藩置県後は県庁につとめ、尖閣列島の調査にも参加している。作品として「ジュリ(娼婦)図」「按司夫婦図」「田舎夫婦図」「花鳥図」「山桃売娘之図」などがある。1885年、40歳で死去した。

亀川盛武(1808-1890)
1808(文化5)年首里儀保村生まれ。唐名は毛允良。易斎、隣林斎と号した。琉球王国末期の三司官。亀川親方盛亮の長男。幼いころから学門を豊平良全(馬執宏)に学び、絵は伊良皆盛昆(扇宏熙)に学んだ。1842年の江戸上りで楽土として随行し、その時に描いた「鶴の図」が将軍・徳川家慶に激賞されたという。その後、冠船奉行、勘定奉行を経て、三司官になるが、1872年に老齢を理由に辞任、明治政府による琉球処分に反対し、頑固党の指導的立場に立って抵抗した。1890年、82歳で死去した。

宜野湾朝宏(1834-1870)
1834(天保5)年首里赤平村生まれ。唐名は向有章。三司官の宜野湾親方朝昆の四男。山水画、人物画、花鳥画を得意とした。1870年、36歳で死去した。

沖縄(16)-画人伝・INDEX

文献:沖縄美術全集4、すぐわかる沖縄の美術、琉球絵師展