江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

四条派から南画に転じた白神暭々と門人

白神暭々「花卉図」

柴田義董の代表的門人として、終始文人的な作画態度を保持し、晩年には南画に転じた白神暭々(1777-1857)がいる。暭々は、窪屋郡中島村の豪農の家に生まれ、10歳前後で近くに住む黒田綾山の門に入って南画を学んだのち、京都画壇で活躍していた柴田義董について四条派を修めた。しかし、もともと資産家で、京都では頼山陽や篠崎小竹らと親しく交友するなど文人的な性格だったため、技巧を重視する四条派の作風は結局適さず、中年以降は次第に中国明清画法を取り入れるようになり、明清画に倣った山水、花鳥を多く残している。

※白神暭々の「暭」の正しい表記は「白」+「皐」

白神暭々(1777-1856)
安永6年窪屋郡中島村生まれ。名は昌保、字は子興、通称は平助、初号は鯉山。豪農・白神昌房の長男。幼いころから画を好み、10歳前後で玉島の黒田綾山に師事して本学的に画法を学びはじめた。綾山の門では鯉山と号して作画活動を行ない、幼馴染みの岡本豊彦らと競いあったと思われる。文化8、9年頃には柴田義董に学ぶが、生活の拠点を京都に移さず、中島村に住み、時々京都に滞留しながら学んだとみられる。文化11年に暭々の居宅を訪れた頼山陽が記した『暭々居記』によると、暭々は資産が豊かで悠々と暮らしており、画業に関しても自らの楽しみとしてのみ筆を執るといった文人的趣味的姿勢を崩さなかったという。画風は次第に中国明清画法を取り入れるようになり、それが晩年まで続いている。40代半ばになると家業を一族に託して中島村を去り、京都、次に播州高砂に移り、50代後半には但馬国生野、60代後半には大坂に住んでいたようである。69歳のときに病を得て帰郷し、安政4年、81歳で死去した。

井上楠堂(不明-1856)
名は眞澄、幼名は祐吉。はじめ屏石と号してのちに楠堂と改めた。都窪郡大高村の人。井上環の長男。家は代々足高神社の神官をつとめていた。平賀元義に国学を学び、和歌を関鳧翁に、漢籍を西山拙斎に学んだ。画ははじめ白神暭々に師事し、ついで大原呑舟の門で四条派を修めた。のちに京都で岸岱に師事した。安政3年死去した。

中原国華(1796頃-1867)
寛政8年頃賀陽郡八田部生まれ。名は正香、通称は利右衛門、初名は利之丞。別号に瓊岳がある。父の生家を継ぎ、玉島屈指の富豪となった。風流を好み、画を白神暭々に学び、花鳥、人物をよくした。慶応3年、72歳で死去した。

荒木曲肱(1789頃-1878)
寛政元年頃生まれ。名は喜六。備中岡田村の人。白神暭々に画を学び、人物、花鳥を得意とした。余技として彫刻もよくした。岡田藩の絵師として幕府に進達する絵画に関するものはすべて曲肱の手によったとされる。明治11年、90歳で死去した。

岡山(16)-画人伝・INDEX

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、岡山の美術 近代絵画の系譜、一宮ゆかりの画人たち 特別展、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典