江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

岡山近世画人として最大の存在・浦上玉堂

浦上玉堂「山水図」(煙霞帖)重文

岡山ゆかりの近世画人として最大の存在は、浦上玉堂(1745-1820)だろう。玉堂は、もともと鴨方藩の武士だったが、風雅の道を求めて50歳になる年に脱藩した。脱藩の理由は諸説あるが、隠逸を好み、書画を愛し、琴を弾じ、詩をたしなみ、ただ好事に浸るという生活態度が藩士に不向きだったと思われる。その後は、七弦琴を抱き、画を描き、酒を友としながら全国各地を放浪し、晩年になって京都に定住した。玉堂の長男・浦上春琴(1779-1846)は、岡山に生まれ、16歳の時に父・玉堂の脱藩に伴って岡山を去り、諸国遍歴ののちに、30代の半ばから京都で画家生活を送った。当時、春琴は玉堂を凌ぐ人気だったという。弟の秋琴(1785-1871)も山水を主とした南画を描いたが、音楽を以って会津藩に仕え、のちに岡山に帰った。

浦上玉堂(1745-1820)うらかみ・ぎょくどう
延享2年岡山生まれ。姓は紀、名は弼、字は君輔、通称は兵右衛門。はじめ穆斎と号してのちに玉堂琴士とした。備前岡山藩支封備中鴨方藩士・浦上兵右衛門宗純の長男で、7歳で家督を相続した。師弟関係は明らかではないが、画業は30歳頃に始めたらしく、江戸在勤中に谷文晁らと交流し、また中国画を模写して学んだと思われる。琴への造詣も深く『玉堂琴譜』の著書がある。50歳を迎えた年に、春琴、秋琴の二子を連れて但馬城崎に遊び、そのまま脱藩した。その後は、自由人として諸国を歴遊、67歳以降は京都柳馬場で春琴と同居し、琴、詩、書、画に親しむ悠々自適の生活を送った。自らが画家であることを拒否し、自然のみを対象に、巧みに描こうとする意思もなく、心の動きのままに絵画として仕上げていったという。文政3年、76歳で死去した。

浦上春琴(1779-1846)うらかみ・しゅんきん
安永8年岡山生まれ。浦上玉堂の長男。姓は紀、名は撰、字は伯挙・十干、通称は喜一郎。別号に睡庵、二卿、文鏡亭などがある。寛政6年の父・玉堂の脱藩の際、弟の秋琴と共に同行し、以後京都を拠点に全国を遊歴した。33歳の時に長崎遊学を終えて京都に帰り、柳馬場に居を構えて父と同居した。父とは対照的に写生に基礎をおいた温和な山水や花鳥を描いた。頼山陽、篠崎小竹、柏木如亭ら多くの文人と交流した。弘化3年年、68歳で死去した。

浦上秋琴(1785-1871)うらかみ・しゅうきん
天明5年岡山生まれ。浦上玉堂の二男。姓は紀、名は遜。父に画を学んだ。藤本鉄石、伊藤花竹と親交があった。絲竹を得意とした。明治4年、87歳で死去した。

岡山(6)画人伝・INDEX

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-岡山県の絵画-古代から近世まで-、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典