岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中赤浜(現在の総社市赤浜)で、京に出て相国寺の春林周藤に禅を学び、天章周文に画を学んだとされる。宝福寺(総社市井山)の小坊主時代に涙でねずみの絵を描いたという有名なエピソードも本書に記載されているが、実話か創作かは定かではない。雪舟の前半生については不明な点が多く、表舞台に出てくるのは、40歳代のはじめに周防国山口に住む画僧「揚雲谷」としてであり、号を「雪舟」に改めたのは45~47歳と推定される。その後、48歳の時に中国に渡り、水墨画を学び50歳で帰国、独自の画風を確立したとされる。画歴に空白の部分が多いため、近年の研究では、経歴不詳の画家「拙宗等揚」が雪舟と同一人物であるという説が有力になっている。
雪舟の弟子としては、等悦、秋月、宗淵、周徳、等春らがいるが、弟子たちの残した作品から推測すると、雪舟は弟子の個性に合った画法・筆法を選択して教えていたとみられる。また、雪舟が活動の拠点としていた山口のアトリエ雲谷庵を引き継いだ雲谷等顔(1547-1618)は、雪舟派の正系として雲谷派を立ち上げ、子の雲谷等益(1591-1644)は雪舟四代を名乗った。長谷川等伯(1539-1610)は、祖父が雪舟の弟子・等春に学んだことから、自らを雪舟五代と称するなど、雪舟は多くの画家に影響を与えている。
『備作人名大辞典』には吉備国の弟子として、等春、等安、雪津が掲載されている。
等春(不明-不明)
永正頃の人。かつて周文が備前に来た際に、牧童が馬を描くのを見ると、その馬は脚が一本欠けていた。周文がその真意を問うと、これは馬の勢いだという。周文は驚き京都につれて帰り画法を教えると大成した。のちに雪舟に師事し益々研鑽に励んだという。
等安(不明-不明)
備中の人。雪舟の門に学び、画をよくした。
雪津(不明-不明)
御野郡金山寺村の人。『本朝画史』によると、筆法を雪舟に学び、花鳥、人物をよく描いたとある。
岡山(1)-画人伝・INDEX
文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、備作人名大辞典