長崎三画人らによって大成された南画は、その後も門人たちによって引き継がれ、鉄翁祖門に学んだ守山湘帆と中村陸舟、三浦梧門に学んだ伊東深江の三人は、長崎後の三秀とも崎陽後の三筆とも称された。ほかにも、鉄翁の門からは松尾琴江、立花鉄嵒、木下逸雲の門からは、池辺蓮谿、小曽根乾堂、池島邨泉、成瀬石痴らが出て、長崎南画の画系は引き継がれた。大正、昭和に入ってからも鉄翁直系の正統を継いだ帯屋青霞が長崎南画の第一人者として活躍、伝統継承と後進の育成につとめた。
守山湘帆(1818-1901)「帆」は正式には「馬+風」もりやま・しょうはん
文政元年長崎生まれ。通称は愛之助、諱は吉成、字は士順。伊東甚八義重の三男、のちに桜町の守山家の養子となった。出島組頭をつとめた。幼いころから鉄翁祖門について南画を学んだ。明清画家の作品も独習し、文久年間に徐雨亭が来舶すると、画法、書法を学んだ。明治34年、83歳で死去した。
中村陸舟(1820-1873)なかむら・りくしゅう
文政3年生まれ。本名は利雄、通称は六之助、字は浄器。別号に梅香がある。家は代々遠見番で、家業を継ぎ長崎奉行組下遠見番役人をつとめた。高島晴城について西洋の砲術を学び、ほかにも、造船学、航海学、機関学、算術などを修めた。その一方で、鉄翁祖門について南画を学んだ。明治6年、54歳で死去した。
伊東深江(1835-不明)いとう・しんこう
天保6年生まれ。通称は福太郎、諱は孝正、字は中甫。別号に春農がある。伊東家は代々町乙名の家系であり、深江も恵比寿町乙名の役をつとめ、幕末には居留地係となり、明治元年には長崎取締助役となった。養豚業に従事するも失敗、以後、長崎を去り神戸に移住した。三浦梧門に南画を学び、山水図と芦雁図を得意とした。
松尾琴江(1836-1865)まつお・きんこう
天保7年生まれ。松尾其賞の兄。通称は禎造、諱は正、字は端士。鉄翁祖門に南画の画法を学んだ。病気がちで、生涯独身で通した。慶応元年、30歳で死去した。
松尾其賞(1839-1907)まつお・そしょう
天保10年生まれ。通称は恵三太。三歳年上の兄である琴江に書画を学んだ。守山湘帆の影響を受けた松画を得意とした。また、唐船を描くことのも巧みだった。晩年は引地町に居を構え、風雅な生活を楽しんだ。明治40年、69歳で死去した。
立花鉄嵒(不明-1892)たちばな・てつがん
鉄翁祖門に南画を学び、拙嵒に書を学んだため、鉄嵒と号した。嘉永5年から明治25年まで、41年間、観善寺の第13代住持をつとめた。明治25年死去した。
池島邨泉(1844-1907)いけしま・そんせん
弘化元年生まれ。通称は嘉吉、のちに正造に改めた。初号は尊泉。15、6歳のころに木下逸雲に南画を学んだ。芦雁の絵に打ち込み、自宅でも飼育していた。慶応2年に父の池島正兵衛が没したため、その跡を継いで池正という名の骨董商としても成功した。東京、京阪方面にも進出した。明治40年、63歳で死去した。
大倉雨邨(1845-1899)おおくら・うそん
弘化2年生まれ。名は行、字は顧言、越後の南画家。生家は代々医者。松尾紫山に画を学び、長崎では鉄翁祖門のもとで学んだ。明治5年清にわたり中国絵画の習得にいそしんだ。明治32年、55歳で死去した。
江上瓊山(1861-1924)えがみ・けいざん
文久元年生まれ。幼名は辰三郎、名は景逸、字は希古雨。守山湘帆に師事した。のちに京都に移り住んだ。大正13年、63歳で死去した。
阿南竹坨(1864-1928)あなん・ちくだ
元治元年豊後竹田生まれ。旧姓波多野。本名は衡。別号として酔竹山人、臨泉、二雄、龍洞がある。長崎で守山湘帆に南画を学んだ。長崎市八幡町に住み、のちに兵庫県に、さらに名古屋、東京に移り住んだ。昭和3年、65歳で死去した。
立花素嵒(1869-1951)たちばな・そがん
明治2年生まれ。立花鉄嵒の子。昭和26年、83歳で死去した。
帯屋青霞(1889-1977)おびや・せいか
明治22年長崎市銭座町生まれ。本名は善三郎。初号は梅窓。旧海星商業卒業後、三菱長崎造船所に入所した。大正5年24歳の時に立花素嵒に南画を学び、鉄翁直系の正統を継いだ。はじめは梅窓と号して梅図を得意とした。昭和8年頃から青霞に改号した。長崎県・市展審査員を歴任し、長崎南画の伝統継承と後進の育成につとめた。昭和52年、87歳で死去した。
長崎(16)-画人伝・INDEX
文献:九州南画の世界展、長崎絵画全史