江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

米国で肖像画家として活躍した伊達孝太郎

伊達孝太郎「少女」

宮崎における最初の本格的洋画家は、伊達孝太郎(1878-1964)とされる。伊達は、宮崎県高岡町に生まれ、宮崎師範学校を卒業後、旧制小、中学校で図画教師をつとめていたが、明治35年にセントルイスで開催された大博覧会見学のために渡米、そのまま米国に留まり、翌年セントルイスの美術学校に入学した。在学中は全米から選ばれて特待生になるなど優秀な成績を残し、卒業後も選抜試験に合格して、明治40年ニューヨーク美術学校裸体科に入り2年間ここで学んだ。

卒業後はフランスに渡ることを希望したが、第一次大戦勃発のため、パリ行きを断念、セントルイスの肖像画館主任をつとめるなど、肖像画家として活躍した。

大正8年の帰国後は、東京に住み肖像画を描いていたが、関東大震災後に帰郷、しばらく高岡に住んでいたが、のちに鹿児島市に移った。昭和6年には池之上町に伊達洋画研究所を設立、制作のかたわら後進の指導にあたっていたが、研究所は太平洋戦争の空襲で焼失した。戦後は鹿屋市の米軍基地で、進駐軍相手に通訳をしたり、占領軍将校の肖像を描いたりした。

伊達孝太郎(1878-1964)
明治11年宮崎県高岡町生まれ。宮崎県立師範学校を卒業後、明治30年佐賀県の小城中学校に図画教師として赴任。明治35年渡米、翌年セントルイスの美術学校に入学した。明治40年ニューヨーク美術学校裸体科に入学、2年間学んだ。卒業後は第一次大戦勃発のため、パリ行きを断念し、セントルイスの肖像画館の主任をつとめ、アーチスト・ギルド・アートリーグの正会員となった。大正8年帰国し、黒田清輝の推薦により国民美術協会会員になった。大正11年9月9日からの3日間、県議会議事堂で個展を開いている。関東大震災後は、鹿児島市に移り、鹿児島の福山中学校で教鞭をとった。昭和6年には池之上町に伊達洋画研究所を設立し、後進の指導にあたっていたが、太平洋戦争の空襲で研究所は焼失した。戦後は鹿屋市で進駐軍相手に通訳をしたり、肖像画を描いたりした。昭和39年、86歳で死去した。

宮崎(24)-画人伝・INDEX

文献:宮崎の洋画100展、20世紀回顧 鹿児島と洋画展、かごしま文化の表情-絵画編、宮崎近代美術創成期の美術家