江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

都城における江戸期最後の狩野派・中原南渓

中原南渓「山水図」都城市立美術館蔵

中原南渓(1830-1897)は、都城領主・島津久静の命により、鹿児島の狩野派・能勢一清に師事し狩野派の画法を学んだ。長峰探隠以来の名手とされ、久静のお抱え絵師となり、狩野派らしい筆法で多くの名作を世に出した。しかし、南渓の代で江戸時代も終わり、都城画壇に君臨した狩野派もやがて衰退、円山派や谷文晁派の絵師たちが勢いを増していった。

都城において江戸期最後の狩野派となった南渓だが、維新後は庄内に住み後進を育てており、晩年の弟子に、のちに宮崎県画壇に大きな足跡を残す山内多門がいる。多門は、南渓に師事したのち、東京で狩野派の橋本雅邦の門人となり、都城の狩野派を継承した。

中原南渓(1830-1897)
天保元年生まれ。名は美母呂、幼名は荘太郎、のちに正蔵、貞邦と称した。別号に挹霞堂、石峯軒、愛松盧がある。都城領主島津家25代久静の命によって鹿児島の能勢浄川軒一清に狩野派の画を学び、長峰探隠以後の名手といわれるまでになった。御用絵師になるが、明治維新により録を離れた。明治15年の内国絵画共進会に「牡丹」他3点を出品している。弟子に山内多門がいる。明治30年、67歳で死去した。

宮崎(5)-画人伝・INDEX

文献:都城市史、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展、かごしま美の先人たち-薩摩画壇四百年の流れ