江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

職業画家を標榜した最初の南画家とされる彭城百川

彭城百川「山水図屏風」(部分)重文 東京国立博物館蔵

彭城百川(1697-1752)は、尾張名古屋に生まれた。薬種商の子とも、養子に入ったとも伝えられ、祖先は中国からの帰化人という説もある。若いころは俳諧師として知られたが、30代はじめに京都に出て画家として活躍した。

画ははじめ狩野派を学び、のちに中国の南宗画を広く研究した。主に学んだのは明末蘇州派と呼ばれる、いくぶん職業化した文人画系の一派によるもので、芝居がかった場面の表現を特色とするその画風は、当時江南の商業都市に広まっていた文人画愛好者層の需要に応えるものだったという。

また、各地を旅し、その地域は伊勢、大坂、金沢、岡山、高知、長崎、大和などに及んだ。野呂介石の談話集『介石画話』によれば、21歳年上の祇園南海を紀州に訪ね、南海が長崎で入手した『芥子園画伝』を贈られ、これによって画理を発明したという。

現存する作品は、学んだ明清画の多様さを反映して作風はあまり一定していないが、大きく分けて、軽妙な筆致の俳画を中心とする日本的主題の絵画と、中国絵画に倣った山水、人物、四君子などの作品群がある。後者によって百川は、祇園南海柳沢淇園らとともに日本南画の先駆者のひとりに挙げられている。

ただ、祇園南海は紀州藩士の子で、柳沢淇園は大和郡山藩の重臣だったことから、ともに絵画は余技の域を超えるものではなかった。それに対して町人階級出身の百川は、職業として本格的に画を描き、自ら「売画自給」と称していたことから、職業画家を標榜した最初の南画家とされている。

彭城百川(1697-1752)さかき・ひゃくせん
元禄10年尾張名古屋生まれ。薬種商八仙堂の子、または養子。本姓は榊原、通称は土佐屋平八郎と伝わるが、彭城を名乗り中国江蘇省彭城出身の渡来系という。名は真淵、字は百川。号を蓬洲、八仙(僊)堂といった。30代で京都に出て明清画風を研究し、画人として法橋に叙された。俳人でもあり、自句を賛した水墨略図の「俳画」を描いた。最晩年の55歳の時、元明の画家列伝『元明画人考』を出版、同年奈良県多武峰の慈門院の障壁画を描いた。宝暦2年、56歳で死去した。

京都(88)-画人伝・INDEX

文献:日本美術全集14、江戸絵画入門、日本の南画、文人画家の譜