江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

肥後狩野の祖・狩野成信

狩野成信「源氏物語図屏風」六曲一隻(部分)

熊本城築城の際に、初代藩主・加藤清正が狩野派の絵師を招き入れ障壁画を描かせたことによって熊本での狩野派の活動がはじまったが、寛永9年、加藤氏の改易によって細川氏が熊本に入国すると、細川家は代々矢野派の絵師を重用したため、狩野派は衰退していった。しかし、狩野派の絵師のなかには細川家に仕え、代々江戸の木挽町狩野家で学んだ一派もおり、その画系は明治まで続いた。彼ら肥後狩野の絵師たちは、熊本城築城の際に熊本に来た喬信や外記の流れを汲むものではなく、新たに京都から来たものとその子孫や弟子たちだった。

肥後狩野の祖となった狩野成信の家系は、子孫に伝わる『狩野家先祖附』によると、初代から三代は絵師ではなく、四代成信から絵師となった。成信は正式に細川家に召し抱えられることはなかったが、たびたび絵の御用をつとめていた。五代弘信も細川家の仕官を望んだが叶わず、病気がちであったらしく隠絵師として没した。六代師信は細川家の命で狩野常信に学び、のちに狩野と改姓し、細川綱利に仕えた。この後、代々狩野姓を名乗るようになったと考えられる。

成信、弘信の二人は細川家に御用絵師として召し抱えられることはなかったが、師信からは矢野派を圧倒する活躍をみせ、師信の弟の幸信が七代目となると藩の画事は幸信に集中し、矢野派三代の茂安が幸信に入門を命じられるなど、矢野派は衰退し肥後狩野は全盛期を迎えた。その後は八代恩信、九代弘信と続いたが、十代養長で狩野派の画系は一応終わったとみられる。

狩野成信(1604?-1675)
肥後狩野家四代。はじめ窪田助之進と称したが、のちに親類の志水清延のすすめで志水に改姓した。細川光尚の代に仕官が叶いそうだったため、京都から肥後に移ったが、慶安2年の光尚の死によって、仕官の願いはかなわなかった。藩絵師ではなかったが、絵の御用はつとめており、《源氏物語図屏風》をはじめ、大慈寺に伝わる《鷹図》二幅や《丹霞木仏焼却図》などの作品が残っている。延宝3年、72歳で死去した。

狩野弘信(初代)(1640?-1702)
肥後狩野家五代。はじめ志水三之丞と称した。細川家への奉公を願い出たが、ついに叶えられず出家して融玄と改号した。神護寺寄進の《八幡宮縁起絵》が残っている。元禄15年、63歳で死去した。

狩野師信(1667?-1710)
肥後狩野家六代。藩御用絵師。はじめ志水庄九郎と称し、のちに狩野に改めた。細川家の命で、狩野養朴常信に学んだ。細川綱利から親しく目をかけられ、官位の件まで勧められたが、未熟を理由に断ったされる。屏風や懸物など多くの仕事を与えられた。宝永7年、44歳で死去した。

狩野幸信(1696-1761)
肥後狩野家七代。狩野師信の弟。幼名は半蔵、のちに芳仙に改めた。元禄9年師信の養子となって以来、師信とともに絵の御用をつとめた。狩野如川院周信に学んだ。正徳2年に藩主が綱利から宣紀に変わると、細川家の画事は幸信に集中し、肥後狩野派は全盛を迎えた。宝暦11年死去した。

狩野恩信(1742?-1813)
肥後狩野家八代。名は朴仙。清水十左門の子。幸信の養子となって狩野栄川院典信に学んだ。藩絵師。文化10年、72歳で死去した。

狩野匡信(不明-不明)
狩野恩信の実子。名は仲之助。別号に柳雪がある。江戸に出て狩野溪雲来信の養子になった。

狩野弘信(2代)(1792?-1833)
肥後狩野家九代。狩野伊圭と称し、弘信と号した。はじめ匡信の門人だったが、匡信が溪雲来信の養子になったため、恩信の後を継ぐため養子となった。天保4年、42歳で死去した。

狩野養長(1814-1875)
文化11年生まれ。肥後狩野家十代。幼名は藤太。凌霄華斎と号した。国学者・木原盾臣の実弟。弘信の養子となって狩野家を継ぎ、狩野晴川院養信に入門し、江戸城の普請にともなう障壁画の制作にも参加した。江戸末期の国学の盛行期に、江戸狩野派に伝わる正統的なやまと絵を学び、やまと絵風の作品も残した。明治8年、61歳で死去した。

熊本(5)-画人伝・INDEX

文献:肥後の近世絵画、雪舟流と狩野派、肥後書画名鑑