江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

墨梅図ばかりを描いた有川梅隠と賛を寄せた書家の鮫島白鶴

有川梅隠「墨梅図」鹿児島市立美術館蔵

江戸後期の薩摩画壇での異色の存在として有川梅隠(1771-1852)がいる。梅隠は、薩摩藩士の子として生まれ、幼いころから画を好み、明時代の画法にならって独学で絵を描いた。もっぱら墨梅図を描いたと伝えられ、確認されている梅隠の作品はすべて墨梅図である。

そのひとつであるこの「墨梅図」(掲載作品)には、画面左上に鹿児島出身で京都で活躍した書家の鮫島白鶴(1773-1859)の賛が添えられている。白鶴は、薩摩藩の仕事で、江戸、琉球、京都などをまわったが、各地で書を称賛され、生前すでに偽者が出回っていたという。世間の常識にとらわれない豪放磊落な人物で、酒を飲むと百篇湧くがごとしだったといわれている。この「酒を酌めば梅辺の雪も寒からず」で始まる本画の賛は、白鶴がしばしば揮毫している自作の七言律詩である。

白鶴は、頼山陽、田能村竹田、小田海僊、福田太華ら文人たちと深く交流し、有川梅隠のほか、税所文豹、能勢一清ら郷土の画人たちとの合作作品も残している。

有川梅隠(1771-1852)
明和8年生まれ。薩摩藩士。諱は貞熊、通称は利右衛門。別号に撫松亭、白眉山人がある。父は伊集院彌右衛門兼道といい、のちに有川家の養子となった。梅隠はその末子。幼いころから画を好み、明の画法を学び墨梅図を得意とした。現存する作品は、梅の絵ばかりである。嘉永5年、82歳で死去した。

鮫島白鶴(1773-1859)
安永2年生まれ。鮫島政芳の子。本姓は藤原氏。通称は吉左衛門、字は黄裳、諱は政文。別号に鼓川、雲蘿、在中、畸翁などがある。幼いころ郷土の書家・馬渡大八に書を学んだ。学問を好み、詩作をよくし、才知が人並みはずれて秀でていた反面、自由気ままで、拘束されない言動が多かったと伝わっている。若いころから藩の仕事で江戸をはじめ各地をまわり、42歳の時には琉球にも渡っている。京都堀川邸に宮番として仕えていた時には、近衛忠熈公の前で書を披露し絶賛されたという。晩年には藩主・島津斉彬に論語を定期的に講義した。安政6年、87歳で死去した。

鹿児島(17)-画人伝・INDEX

文献:鮫島白鶴の世界、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、黎明館収蔵品選集Ⅰ、鹿児島市立美術館所蔵作品選集、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考